くちびるに金剛石

 舞踏会。それは、ウィノナにとっていうほど思い入れがあるものではない。
 生まれが平民であることもそうだが、オフェリー家の養女になってからも大して好きにはなれなかった。つるつるの正装に身を包み、輝かしい宝石をいくつも身につけ、貴族諸兄らと踊りにふける。踊り自体は嫌いではなかったし、舞踏会でしか食べられない焼き菓子にはたいへん心が躍ったものだ。
 それでも「舞踏会」は好きではなかった。貴族の男に見初められることにも、着飾った男を値踏みすることにも、ウィノナはまったく興味がなかったからだ。彼女には心に決めた人間がいる。それは、幼い頃の彼女を救ってくれた少年であったり、今まさに恋い焦がれている王子様であったり。彼ら2人に代わる人間など、今のウィノナにはとてもじゃないが想像することができなかった。
 だから今日――星辰の節の25の日に行われている舞踏会にも消極的であった。その証拠に、舞踏の時間が始まってもずっと背中を壁に引っつけて周りの様子をうかがうばかりだ。目の前にはきらびやかな世界が広がっている。学校主催の舞踏会とはいえ、ここはガルグ=マク大修道院に併設されている士官学校だ。正装を身につけることができない以外は今まで見てきたどんな舞踏会にも勝るとも劣らない規模であると思えた。天井にぶら下がっている多灯照明も今日はとりわけ煌めいていて、長い間見つめていると目が眩んでしまいそうだ。
 大広間の中央、舞踏の中心地では黒鷲の学級の級長であるエーデルガルトや、青獅子の学級の級長ディミトリが生徒たちに揉みくちゃにされながら踊っている。先ほどはクロードも先生と踊っていたはずだ。やはり級長や先生は人気者なのだろう、引く手あまたにて代わる代わる踊りの相手を変えている。否、変えさせられているというべきか、ひとりあたりほんの数分しか彼らと踊りを共にすることは出来なそうだ。
 正直なところ、羨ましかった。自分もディミトリと一緒に踊りたかったから。もちろん彼は優しく慈悲深い人間であるからして、ウィノナが申し出れば他の人間と同じように受け入れてくれるのだろうけれど、青獅子の学級を離れてしまった手前ほんの少し気まずいし、何より他と同じでは意味がなかった。同じに扱われては困るのだ。
 ――だって自分は、彼にとって唯一無二の×××なのだから……そこまで思案を巡らせて、ウィノナは何かに弾かれたように目を瞬かせた。
 自分は何を考えていた? 彼にとっての自分を、いったい何の位置に置こうとした。そこはお互いが生きている限り当たり前の立ち位置であるけれど、今まで望んでいたものとは少しだけ毛色が違うものだった。
 ウィノナは願わなかった。彼の――ディミトリの好い人であることを。彼の隣を望みこそすれ、その「隣」の意味はある意味で今までの願望とは真逆のものであったのだ。……どうして。胸の奥から疑問が湧き上がる。ふつふつとしたそれはやがて喉から漏れてきそうで、給仕の配った飲み物を呷るものの決して止んではくれなかった。苦しみに何杯も硝子坏を空にしていると、気づけば舞踏会はたけなわになり、周りがどんどん意中の人と手をとりあう頃になっていた。
 ヒルダもお目当ての男と踊れたのだろう、なんとなく表情が晴れやかになっている。ラファエルは食事机を掃除せんとばかりに食に打ち込んでいて、マリアンヌは相変わらず壁際で顔をうつむかせていた。ローレンツはあちらこちらで貴族女史に声をかけ続けているようだ。
 何も変わらない世界で、自分の感情だけがぐちゃりと歪に形を変える。ウィノナは恐怖した。今の自分にある一本柱が傾いているような気がしたから。恐ろしくて、逃げ出したくて、急かされるように大広間を飛び出してしまった。
 やがて中庭の、いつもなら恋人たちで賑わっている庭園にたどり着く。有り難いことに今は人の気配もない。全員参加の華やかな舞踏会の裏側、こんな淋しいところにもしも誰かがいるとしたら――それは、様子のおかしい級友をこっそり追いかけてきたような、金鹿の学級の級長くらいだ。
 彼は相変わらずの気安い笑みを浮かべながら、遠い証明に照らされているウィノナの背中に話しかける。
「どうした、食いすぎで腹でも壊したか? それともまさか、人酔いか……」
「あなたには気配りってものがないのかしら? 大体、もしお腹を壊していたなら追いかけてくるのはおかしいでしょう」
「おっと、飛竜の節のことを忘れたか? お前だって食い倒れた俺のことをつけまわしてきただろうが」
「うるさいわね、別につけまわしてなんかないわよ! あなたと一緒にしないで――というか、本当に、ひとりにしてよ……」
 柱が傾いている。それは、今ウィノナがここにいる理由や目的、ひいては生きるための指針が揺らいでいるのも同然だった。
 ウィノナが士官学校に入学した理由など、結局のところディミトリという個人の存在に他ならない。ウィノナは彼に近づきたくてここに来た。彼のそばにいたくて、叶うならば彼にとっての「何か」になりたくて、自分自身をすり減らすようなことを何度も何度もやってきた。それこそ娼婦と嘲られても仕方がないことだって繰り返してきたし、この体はお世辞にも綺麗なものとは言いがたい。おのれを幾度も削ってきた。全部捨てて、ぐちゃぐちゃにしてまで、叶えたいものがここにあったのに。
 そもそもを言うなら金鹿の学級への引き抜きに応じたこと自体がおかしかったのかもしれないけれど――ウィノナはまたおのれの行動を悔やむ。愚かな自分に嫌気が差して、クロードの目があることも忘れて我が身をかき抱いた。怖かったし、憎かったからだ。恐怖、後悔、悲嘆、嫌悪、様々な感情がウィノナに覆い被さって飲み込まんとしている。
 僅かな灯りですらわかるほどに、ウィノナの肩は震えていた。
「空気を読めていないのなら謝るが……あいにくと俺は、こんなに弱っている級友をひとりにしておけるほど非情でいるつもりはないんでね」
 さく、とクロードの足音が近づく。さく、さく、芝生を踏み鳴らす音は一定の間隔で大きくなり、やがてウィノナのすぐそばまでやってきた。クロードの手が、ことさら優しく肩に触れる。弾かれたように見上げる彼女の顔は今にも泣きそうに歪んでいて、クロードはそのまま、半ば衝動的に細い体を抱き寄せた。
 簡単な拘束だ。ウィノナの力を持ってすれば一瞬で解けてしまえるような、子供だましにもならない両腕。それでもウィノナは逃げなかった。逃げたかったし、突き飛ばしてしまいたかったけれど、どうしてだか体は動かなかった。
 理解してしまったのだ、彼の腕に抱きしめられた瞬間に。どうして柱が傾いたのか、どうしてディミトリの隣を望まなくなったのか、どうして今、彼の腕に身を委ねてしまっているのか。心地よさを感じている。ウィノナはクロードとの学校生活に、金鹿の学級という新たな居場所に、居心地の良さと安心感を覚えてしまっていた。
 今までずっと掲げ続けてきた夢や願望を忘れてしまうほどに、クロードの近くはひどく楽しかったのだ。
 大広間から漏れ出る舞踏会の音楽。品のある旋律はウィノナを拒絶するような響きにも聞こえて、どれだけ彼女があの場に似つかわしくないかを突きつけてくるようでもあった。けれども空気には飲まれてしまうもので、こうしてクロードと抱きあっているのも、鼓動の音に安らいでいるのも、きっとあの甘い雰囲気がここまで来ているせいだと思った。
 くいと指先に顎をすくわれ、彼の熱っぽい瞳に応えるように目を閉じてしまったのも、同じく。

「あれ、そういえばクロードくんとウィノナちゃんは?」
 出し抜けに声を発したのはヒルダだ。彼女はきょろきょろと大広間を見渡して、馴染み深い級長と少しずつ仲を深めてきた級友の姿を探した。はたと気づけば長いこと二人のすがたを見ていない気がする。
 クロードは良くも悪くも目立つ見てくれをしているがウィノナは別にそうでもなく、けれど彼女はヒルダよりもクロードと連れ立っていることが多かったため、よく目立つ級長様を見つけられさえすれば芋づる式に二人とも発見できると考えたのだ。
 けれどもヒルダの狙い虚しく、芋づるどころかその葉っぱですら見つけることは出来なかった。どこでも目につく黄金の外套はその残滓すら残さぬようで、ヒルダはまるで彼がこの場所に来ていたこと自体が何かの見間違いだったのではないか、とすら思う。
「クロードさんは、さっきまであそこで踊っていた、気がしますけど……」
「だよねー? まさか急にいなくなるなんて……クロードくんはわからなくもないけど、ウィノナちゃんが抜け出すなんてちょっと予想外かも」
「ふん、大方クロードが唆しでもしたのだろう。まったくあの男は貴族だという自覚が――」
 ローレンツお得意の講釈を耳半分で聞き流しながら、ヒルダは中庭へと抜ける大広間の扉に目をやった。自分たちが玄関につながるあたりにたむろしていた都合上、あそこから二人は出ていったはずだと。舞踏会という華々しくも浮ついた空気にあてられてここを出たのか、それとも何か別の要因があるのか――真相はもはや闇の中であるが、彼女のなかには確信があった。
 それは、日頃より似た者同士だと感ずる級長クロードの、ウィノナに対する感情について。
「クロードくん、ウィノナちゃんのことすっごく気に入ってるもんねー」
「そうなんですか……? ……あ、でもたしかに、あの二人は一緒にいることが多いかも……」
 ヒルダの独り言に、ローレンツの講釈を真っ向から受けて戸惑っていたマリアンヌが反応する。ヒルダがうんうんとうなずく動きを、陰りのある双眸がじっと追っていた。
「だってさ、クロードくんってあたしたちにも適度に距離を取ってるじゃない? でもウィノナちゃんには自分から近づいてると思うのよね。あんなふうに積極的になってるのって、ほかは先生くらいじゃないかしら」
 確かに……と感心してばかりのマリアンヌは、ヒルダの言葉にまたひとつ感嘆の声をあげてうなすく。マリアンヌだけではない、ローレンツも思い当たる節はいくつかあるのだろう、彼女の言葉に何かを申し立てることはなかった。おそらく他の生徒に聞いても同意ばかりが返ってくるはずだ。
 クロードとウィノナはこの半年と少しの期間で、金鹿の学級の生徒のほとんどに認められるほど近しい仲になっていた。
「仲良くやってくれてるならいいんだけどねー、ウィノナちゃんって一人でいること多いし。でも、面倒事だけは勘弁してほしいかも」
 その言葉にもまた、生徒たちは同意を向けるのだろう。

 
20201109 加筆修正
20200916 加筆修正
20200818