始まらぬ夜明け

 彼と――クロードと共に迎える朝は、果たして何度目になるだろうか。
 窓から差し込む朝陽に照らされた部屋のなか、意外と薄い胸板を撫でてみると、むにゃむにゃと何か不満を垂れながら、ぐずるように寝返りを打つのが少し面白い。こういうとき、やめろだのまだ寝かせろだの眠いだの何だのと、クロードがそう言った戯れを言うのはもはやお決まりとなっていた。
 色素の濃い彼の肌に初めて触れた夜、自分たちと何ら変わりない手触りであることにウィノナは少しだけ驚いた。別に差別意識がどうこうというわけでなく、視覚から得る情報と触覚がうまく繋がっていなかったのだろう。彼の体温は心地よかった。肌と肌が触れて、熱を持って、ずっと気持ちが悪いと思っていたこの行為も、彼とであればそれなりに何かを拾っているような気がするのだ。だからこそウィノナは彼との関係を一夜限りとして終わらせず、何度も何度も始まりのない夜を過ごしていたのだった。
 寝台の縁に座るウィノナの腰にしがみついてくるクロードは、やはり未だに頭が醒め切っていないようだった。甘えたような彼を鬱陶しいと撥ねつけていたのは果たしていつの頃までだったか、今は特に何も思わなくなってしまった。嫌でもないし好きでもないが、わざわざ剥がすほど不快なものではなくなったのである。
 気づけばウィノナは、彼との触れあいに何らかの楽しみを得るようになっていた。
「……ねえ、クロード」
「あー……?」
「あなたの、その、三つ編み。私が編んであげましょうか」
 少しだけ硬い髪に指を絡ませる。毛深さを揶揄ってすねられたのはいつだったか、軽口混じりに過ごした初夜がもはや遠い日のようだと――そこまで考えて、よくもあんな状態に陥っておきながら和やかな初夜を迎えられたものだと思った。あのときどれほど自分が弱っていたかはウィノナ自身もわかっていて、だからこそあんなふうに彼を受け入れてしまったのだけれど……毒気も憂鬱も取り払う、それこそがクロードの力なのかもしれない。
 あの夜。傾いた柱に怯えきっていたはずのウィノナは、けれども彼と言葉を交わすたびにくすくすと笑顔を取り戻し、朝にはその一時的な苦しみもなくなっていたように思えた。もちろん何もかもを忘れたとか、その一夜だけで吹っ切れたとか、もうディミトリなんてどうでもいいのだとか、そんなことを言いたいわけではない。今だって彼の姿を見ると胸が潰されそうになるし、あの夜のように足元が真っ暗になるような錯覚をおぼえる。
 けれどもそれに囚われるばかりではなかった。苦痛をやり過ごし、上を向いて、再び歩き出す力のようなものを、きっとウィノナはクロードから与えてもらっている。クロードという存在は、ウィノナにとって太陽にも似た光を持っているのかもしれない。
 なんとなくあの夜を懐かしむような気持ちになりながら、ウィノナはつん、つん、ついと、いつも編んでいるおかげで癖のついた横髪を弄ぶ。夢見心地のままでいたクロードは、彼女の指の動きにそのまま身を委ね……かけて、がばりとその身を起こした。
「……お前に任せたら禿げちまう」
「ふふ、そんなことはないわ。これでも手先は器用なほうだもの」
「鋼の剣を粉にしようとした女がよく言うぜ……ったく、お前の目覚ましはいつも突拍子がないな」
 のろのろと起き上がるクロードは、床に放ったままの制服を手にとり纏う。シワになっていないのかと訊くと、きちんと計算して投げ捨てたから大丈夫だと返された。ウィノナのぶんの制服も同じように気遣いながら脱がしてくれたようで、確かにきちんと畳んでおいたときと何ら変わりない着心地のような気がする。やはり抜け目のない男だ。
 しばらく衣擦れの音ばかりであった室内も、やがて大方の身支度が整えばぽつぽつと会話の芽も出てくる。体は痛くないか、無理をさせたかもな、そう気遣うクロードには「そんなにヤワな女じゃないわ」と彼の尻を叩いて返した。うひゃ、といささか間抜けな声をあげながらとびはねる、そんな姿が面白くてウィノナはくつくつと笑った。
「……さて、腹も減ってきたし食堂に向かうとするか――っと、そうだ」
 緩慢な動作で部屋から出ようとするクロードが、ぴたりと足を止めて振り返る。扉の向こうに人の気配でも感じたのだろうか、ウィノナがぼうっと彼の動向を見守っていると、クロードは一瞬やわく微笑んでぐっと顔を近づけてきた。
 ――また始まった。ついつい眉間にシワを寄せそうになったが、その意図を汲んで従うように背伸びをし、言葉の代わりに唇を寄せてやる。いつもなら一度唇を重ねればそれで終わるはずなのだけれど、しかし此度のクロードはあろうことかそのまま戯れすら始めたのだ。思わず目を見開くウィノナを面白がっているのだろうか、クロードはまったくやめるような気配を見せず……けれど、音を立てて優しく、ほんの一瞬だけ触れる唇は人間らしく柔らかい。気づけばその両手のひらがウィノナの頬を包むようになり、慈しむような触れあいは何度も、何度も繰り返された。
 ほどなくして満足したのだろう、ゆっくりと顔を離したクロードはくすつきながらウィノナの顔を眺めている。
「おはよう、ウィノナ」
「……おはよう」
 ――どうして彼は、こんなにも無意味で無益な行為に時間を割いてしまうのだろう。
 自分たちに恋人らしい挨拶なんてものが似つかわしくないと知っているくせに度々こんなふうな“恋人ごっこ”を仕掛けてくるのだから、この男は本当に末恐ろしいと思う。こんな振る舞いを前に誤解させられた人間が、この世には果たして何人いるのだろうか。
 彼への悪態をすんでのところで飲み込むウィノナが舌打ち混じりに部屋の扉を開くと、今度は不幸にもその真ん前を金鹿の学級の生徒であるローレンツが通りかかってしまった。目の前に映る紫色に、ウィノナは再度打ちそうになった舌を必死で抑える。
 ローレンツ=ヘルマン=グロスタール――ウィノナは彼があまり好きではなかった。その所感は苦手などという生易しいものではなく限りなく“嫌い”に近いような気もするが、とにかくウィノナにとって彼の考え方や振る舞いは単純に理解のできないものだったのだ。
 ウィノナはもともと平民の生まれであるからして、つまり「貴族」という人間の考えることがよくわからない。良くも悪くも貴族と平民を分けて考える彼だって、家のひとつでも潰してしまえばただの平民に成り下がってしまえるのに。通う血は同じ色で生まれた土地も同じ場所なのに、どうしてそんなにも区別して物を考えられるのか――彼が高尚な話をするたび、ウィノナはいつも首を傾げて彼の言葉を聞き流していた。
「ウィノナさん……? なぜ君がクロードの部屋から出てくるのだ」
「なぜ、と言われましても。彼と同衾したからに他なりませんが」
「なっ……同衾だと!? クロード、貴様よもやウィノナさんに無理を強いて――」
「んなわけねえだろ、合意だ合意! だいたいなあ、無理やりやってたらこんなふうに並んで部屋を出てくるわけがないし、そもそも朝まで一緒にいねえよ」
 クロードのしどろもどろな弁解もむなしく、ローレンツは未だ彼に訝しんだ目を向けている。
 仕方がない、と言えばそうだ。クロード以外の人間にとって、ウィノナは線が細くか弱い、ひどく儚げな少女として映っている。彼女は他人を欺いて生きているがゆえに、否、むしろこうしてありのままを晒しているクロードという人間のほうが希少なのである。
 だからこそ、ローレンツの思うウィノナが決してこんなふしだらな行いはしない、控えめで慎みのある貴族女子であることも理解できることだ。ウィノナ自身そういうふうに自分を偽っているのだから、彼からの印象はむしろその企みが成功していると言える。彼女は誤解されて当たり前の人間であった。
 ただひとつ問題があるとすれば、クロードという数少ない理解者に迷惑がかかることのみで――そのせいでお互いの生活、ひいては未来に支障があってはいけない。どうしたものかと鉄仮面の下で頭をひねりながら、ウィノナは再び口を開く。
「ローレンツ。あなた、私とクロードが睦まじいと感じたことはありませんか?」
「は……? あ、ああ、確かに。思えばよく一緒にいるところは見かけるなと……」
「そうでしょう。なにせ私たち、今は道ならぬ恋に身をやつしているところなのですから……」
 うやうやしく目を伏せてそうのたまうウィノナに、クロードは文字通りぎょっとした顔をして彼女を見る。対するローレンツは顔色を変え、けれどもすぐに気遣うような素振りを見せた。内心でウィノナがほくそ笑んでいるとも知らずに。
「私たちの関係が知れてしまえば両家はきっと穏やかでは済まないし、何かしらの問題が起こることになるでしょう。それこそ小さな戦争の火種になってしまうかも……」
「確かに、同盟領は未だ小競り合いが絶えないのが現状だ。穏便に済ませたいと思う君の考えも理解はできるが……」
「ええ、ええ! だからお願いです、今ここで見たことも、私たちの関係も、どうか内密にしていただけませんか。せめて……せめて私たち、学生の間だけは穏やかに過ごしたいのです」
 ローレンツの感嘆の声が聞こえる。おそらくウィノナの物言いに胸を打たれたのだろう、手のひらで目元を覆って何某かに打ち震えているようだった。やがて彼はひっしとその手を握りしめ、ウィノナに対して激励ともいえる言葉を贈っている。
 けれど彼という真っ当な人間を騙すことについて胸を痛めるようなウィノナではなく、むしろダメ押しのように彼の手を取って見つめあった。潤んだような双眸に映るローレンツは、使命感に燃える貴族そのものの顔をしている。
「君が望むなら、このローレンツ=ヘルマン=グロスタール、決して君たちの関係を公言しないと誓おう。もちろん卒業後だって支援は惜しまないさ、もし何か手伝えることがあればいつでも遠慮なく――」
「ありがとうございます、ローレンツ。私、何とお礼を言えばいいか……」
 ウィノナは震えている。それは喜びではなく、彼を簡単に転がせてしまったことに対して、だ。
 けれどもさすがになけなしの、ほんの砂粒ほどしかない良心が痛み始めたのか、それっきり何も言わなくなってしまったのである。ただそこは隣に立つクロードの出番であって、彼はウィノナの行為をつなぐように口を挟む。途端に顔つきが変わったローレンツに眉をひそめてはいたが。
「悪いな、ローレンツ。気を遣わせちまって」
「む……礼なら僕ではなく彼女に言うんだな。こんなにも君を想ってくれているのだ、大切にしたまえ」
「はは……そうだな。大切にはしてるつもりなんだが――」
「それと、恋人同士燃え上がるのは結構だがあまりハメを外しすぎないように。君たちは仮にも貴族なのだ、風紀の乱れを誘うのは良くない」
「……ご忠告どーも」
 ひとしきり話し込んで満足したのか、ローレンツは足取り軽く廊下を横切っていった。軽やかな背中は貴族らしくしゃんとしており、ウィノナはまた心の隅で苦手な男だという認識を深める。
 やがて階段をくだった彼が見えなくなってから、クロードとウィノナはどちらともなく大きなため息をつき、そして食堂への道を歩き出した。自然と歩調をあわせるようになったのが果たしていつの頃からだったか、今となってはもう、思い出せない。
「よかったのか? あんなふうに誤解を招くようなことを言って」
「あなたの“恋人ごっこ”に乗ってあげただけよ。それにあの男は常識的ですもの、みだりに触れまわるようなことはしないでしょう」
 苦手な男ではあるが、信頼できないとは思っていない。彼が模範的すぎる貴族であることも、そして良性の人間であることもウィノナはしっかりと理解していた。
 彼は貴族のなかの貴族だ。そこに他意はなく、彼は彼なりに、彼独自の視点から同盟やフォドラの未来のために奮闘している。そう、だからこそ反りが合わないというだけの話であって、別にウィノナはローレンツという男の人間性までを否定するつもりはなかった。……多分。
「“恋人ごっこ”ね……俺は別に、ごっこ遊びのままで終わらせてやるつもりはないんだぜ?」
「あら、私はそんな薄っぺらい冗談で乱されるような女じゃないわよ。せいぜい他の女の子に紅葉でも作られてなさいな」
 元同学級の生徒――シルヴァンを脳裏によぎらせながらウィノナは微笑み、そのままクロードの頬を優しく撫でる。いつも通り何かしらの揶揄が返ってくるかと思ったが、予想外にも彼はたじろぐように目をそらし……けれどこれくらいの演技派でなければ他人を出し抜くなんて無理だろうな、と思い直した。言ったそばから騙されそうになるとは。
 こうして色々な付き合い方をしているけれど、相変わらずクロードという男は掴みどころがないように思う。リーガンの紋章が表すように、彼は月の満ち欠けのごとく様々な顔を持って、そして時にぐちゃぐちゃと心をかき乱してくるのだろう。この男に恋でもした日にはまともにはいられないと思い、だからこそ踏み込みすぎないよう意識しているつもりなのだが。
「恋人ごっこなんて、学生身分の戯れみたいなものでしょう」
 ただ、“意識をしている”とはつまりある種の自覚を持っているということに他ならないのだけれど……それに気づくのはあと少し、もう少しだけ後にしたい。まだそのときではないのだから。
「はは……ま、そうだな。こんなの学生のうちで終わらせるべきだ」
「そうよ。どうせ、卒業すればすべて終わりだもの」
 士官学校にいられるのは、あとほんの数節。
 そのことを深く胸に刻みつけ、ウィノナはまるで終わりに向かうような日々を過ごしている。

 
20201109 加筆修正
20200911 加筆修正
20200813