君の鏡であれたなら

 お願い! と目の前で頭を下げられたとき、簡単に断れる人間は果たしてどれくらいいるのだろうか。
 それは疑惑や不信の意味ではなく、むしろウィノナ本人がいわゆる少数派、つまり簡単に撥ねつけてしまえる人間だからこそ浮かんだ疑問であった。
 彼女は基本的に他人を無下にすることへの罪悪感を持っていない。この世に存在する数多の他人のうち、誰がどんなふうに苦しんだり悲しんだりしても心が動かされることはほぼなかったし、そもそも自業自得なことの溢れた世の中において、そう簡単に誰も彼もから手を差し伸べてもらえてたまるかとすら思っている。そんなに虫のいい話ばかりがゴロゴロと転がっているわけはないだろうと。
 ゆえに、この「頼みごと」も普段の彼女なら即座に撥ねつけてしまうようなことであった。予定を詰め込んでしまったのは他でもない自分であって、暦を確認せずにホイホイ安請け合いしたのが間違いなのだと。恨むならおのれの不始末を恨め、面倒を他人に押しつけるな――そんなことを腹の中で吐き捨てつつ適当にかわす、それがいつもの彼女がとる行動であっただろう。
 けれど今回は話が別だ。なぜなら今ウィノナの目の前で頭を下げている女の子が、日頃それなりに良くしていくれている級友の一人――ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリルであったのだから。
「どうしても、本当にどうしても外せない用事ができちゃったの! もうほんと、今すぐにでも出なくちゃいけなくて……だからウィノナちゃん、お願い!」
 今ウィノナの目の前で何度も頭を下げている彼女が、こんなふうに直接物を頼むことは珍しかった。いつもはめんどくさいとか自分がやるより慣れてる人のほうがいいとか、そんな理由で他人に諸用を任せてしまうし、それで本人はなんやかんやと楽をする、ということが常なのである。
 それがどうした、今日ばかりは彼女に嘘や偽り、怠惰の色など少しも見えない。珍しく、本当に珍しく本気の一端が見えているような気がするし、手入れの行き届いた桃色の髪をゆらゆらと揺らしながら、ウィノナに課題の当番を代わってもらえないかと真面目に頼み込んできているのだ。……今日は確か、ベレトによって命じられた上空警備の最終日であっただろうか。
 重ねて言うが、ヒルダは貴族のお嬢様らしくそれなりに怠惰な人間だ。温室の水やり、教室の掃除、食堂の当番……その他諸々を、その溢れんばかりの愛嬌でもって他人に押しつけることは珍しくない。否、押しつけるといっても決して無理に頼むわけではなく、相手の隙や好意を見抜き、洗練された手練手管をもって人の善意をするすると引き出してしまうのだ。何より彼女のすごいところは、この無愛想で人付き合いに乏しいウィノナですらいつもの調子で頼みにしてくることであるのだが、ウィノナ自身はまあ、手が空いているときであればそれなりに彼女のおねだりを聞いていた。前述の通り、ヒルダが人に何かを直接頼むというのは非常に珍しいことなのだけれど、しかしウィノナという女は決して優しくも親切でもないので、彼女のような人の言葉を引き出す人間からしたらあまり相性が良いとは言えない。ゆえに対ウィノナに関してのみ、ヒルダは直接そのままの言葉でおねだりをしてくるのだった。
 ヒルダ自身を悪人だと思ったことはないけれど、彼女の褒められないところといえば、やはり仕事を頼んだあとで街へ降りたり装飾品造りに勤しんだり、いわゆる娯楽方面に傾きがちなところであるだろうか。感心しない、どうにかしろ、担任は何をやっているのだ――そんな目で彼女を見ている人間を横目に入れたこともある。まあ、それでも結局気になって手伝いに帰ってくることもままあるし、そういうなんだかんだ世話を焼いてしまうところにこそ彼女の魅力があるのだろうことはウィノナにもわかっていた。もっとも、彼女がウィノナに物を頼んだとき、帰ってきたためしはないけれど。
 話を戻そう。つまりウィノナは、此度もヒルダが娯楽や趣味のために職務を放棄して、さっさと街や市場のほうへ遊びに行く気なのだと思っていた。いつものようにあれやこれやをさくっとこちらに押しつけて、そのままご機嫌でどこかへ行ってしまうのだろうと。けれど今回がそうでないらしいということは彼女の顔と言葉を見れば察せられることであって、ウィノナはヒルダの仕草をじっと見ながら、ゆっくりと首を縦に振る。貴族のお嬢様はなかなか多忙な側面も持っているようだなと、そんなことを考えながら。
「いいですよ。あなたには日頃からお世話になっていますし」
「ほんとー!? ありがとう! さっすがウィノナちゃん、話のわかる女の子って感じ」
「あら……そんなことを言われたら、なんだか急にやる気がなくなってしまいました。残念ですが――」
「え、ちょっとー! そういうの今はやめてよねー」
 からかうようにウィノナが言うとヒルダは両手をわたわたと動かしながら慌てていて、その様子がなんとなくおかしくて笑みが溢れそうになるのを、下腹部に力を入れて耐えた。緩む気持ちをごまかすように小さくため息を吐けばヒルダはねだるような目をして可愛く小首を傾げてみせて、ああ、彼女のこういうところに男はやられてしまうのだなと納得がいく気持ちになった。彼女の振る舞いは視線の運びや首の角度に至るまで計算しつくされたような趣があり、ウィノナはまたヒルダの一挙手一投足から数多の学びを得るのだった。
 ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリル。彼女は可愛らしく、か弱く、幼気な振りをするのが非常にうまい。それはウィノナがここ数年の貴族生活でなんとか身につけようとした処世術に他ならなくて、おのれの力を隠すといった点においても、その生き様にはひどく興味と関心があった。
 もう少し早く彼女と出会えていたら。もしも自分がかのレスター諸侯同盟に身を置いていたとしたら、きっと彼女のことを生きる手本としていただろう――そんな確信にも似た何かを、ウィノナはずっと感じている。
「まあ、あなたの当番を代わることには私にも利がありますから。今日はこの空も飛べますしね」
 高い空をくっと見上げながらウィノナが言うと、ヒルダも彼女にならって目線を青空のほうへ向けた。
 今日の空はひどく綺麗だ。地上に立っているだけでも澄んだ空気や風の匂いを感じられるような気がする。ガルグ=マク大修道院はオグマ山脈の高い位置に建てられているがゆえ、おそらくここら一帯ではとりわけ空に近い場所であると思うけれど……それでも、大地のうえにいながら透明な空気や自由を思い描くことができるほど、今日の空は非常にまばゆく美しい。
 高く広い青空を見ていると、なんとなく心が軽くなったような気分になれるのだ。
「いつも思ってたけど、ウィノナちゃんって天馬に乗るの好きよねー」
「ああ……そうですね。彼らにはあまり気を遣わずに済みますし、空を駆けるのはなかなか心地が良いですから」
「見てるだけでもわかるわー。だってさー、この前先生に天馬の乗り方を教えてもらったばっかりなのに、びっくりするくらいぐんぐん上達しちゃってるしー。空を飛んでるときのウィノナちゃん、すごくイキイキしてるものね」
 空は自由の象徴だ。あの狭い檻のような家から抜け出したウィノナにとって、この空を飛ぶことはひどく気分の良いことだった。未だ養父の柵はあるけれど、しかしこの空を飛んでいればどこにでも行ってしまえるような、自分もこの世界の住人であるような、ひどく開放的な気持ちになれるから。
 足元に粘ついて離れないあの忌まわしい養父によって、ウィノナは人の代わりになること、誰かの代わりにされることをひどく嫌うようになった。代替品にされることなどまっぴらごめんの身の上なので、こうして誰かの代役を引き受けることも、実のところあまり気持ちのいいものではなかった。
 けれどヒルダは特別なのだ。彼女がウィノナに交代を頼むときにはいつもひとつの決まりごとがある。それはウィノナにとって息抜きに等しいものであって、だからこそヒルダの代役に関してだけ言えば、むしろありがたいことであるとすら思っていた。
 だからこそ彼女からの申し出だけは断らない……というか、ほんの少しだけ楽しみにしている面もある、のかもしれない。
「あとはー、やっぱりクロードくんと一緒に飛んでるときが一番楽しそうっていうか?」
「あら……見ていたのですか」
「まあねー。って言ってもこの前ちょこっと目に入っただけだけど、二人ともすごく盛り上がってるふうだったから」
「なるほど、それでクロードとの当番になると、私のところへ来るわけですね」
「ぎく! べ、別にそういうわけじゃないけどー……」
 ウィノナがヒルダからの「お願い」を断らないというのは、まあ、つまりそういうことなのである。
 クロードと二人のときだけは、肩肘張った「貴族のお嬢様」を演じなくてもいい。ありのまま、あるがままの顔を見せてもあの男には問題がないし、むしろ彼はウィノナの素の部分を垣間見て楽しんでいる節すらあるように見えた。
 そのうえ今回の課題は上空警備だ。飛竜や天馬で空を飛ぶのなら巡り会うのはおおよそ飛兵ばかりであるだろうし、彼らは特質上大きな羽音が伴うものであるから、下手をこいて素性を晒す危険性も限りなく低い。つまり彼と二人の上空警備は、ウィノナにとって非常に気楽でのびのびと責務をこなせる、ある種の憩いであるわけだ。
 おそらくヒルダはクロードとウィノナの親密な仲に何かを感じ取っていて――それが恋仲ではないとしても――この申し出ならウィノナが断らないと踏んでいるのであろうけれど、その目論見は実のところものすごく大正解なのである。クロードは今のウィノナにとって一番親しい人間だし、彼といるときばかりは自分を偽る必要もない。彼のとなりは、家でいるより何倍も息がしやすい場所だった。
 魂胆がバレていささか居心地が悪いのだろう、ヒルダはなんともバツが悪そうな顔をしてその場に立っている。その姿は普段の計算された振る舞いとは打って変わった可愛らしいものであって、今度こそウィノナは耐えられずに吹き出してしまった。
 しまった――そう思ったときには時すでに遅しであるわけで、ウィノナはごくごく至近距離から、他でもないヒルダにばっちりとその顔を見られてしまったのである。人通りもそこそこ多い中庭においてよもやこんな醜態をさらすとは、そうも思ったけれどそれより大きいのはこのヒルダのにやにやとした含みのある笑みだ。
 鼻歌でも聞こえてきそうなご機嫌な彼女が良くも悪くも癪に障り、ウィノナはヒルダの額を優しくこつんと小突いてやった。早く行け、今のことは忘れろ、そんな願いを込めながら。
「あ、あいたー! もうっ、女の子の顔になんてひどい真似を……!」
「あなたこそ。急ぎの用事なのでしょう、さっさと出かけなさい」
「ムムムムム……ちえっ、わかりましたよー!」

 
20201120