星空の下は風が吹く

 帝国暦一一八○年。今年の士官学校における鷲獅子戦は、金鹿の学級の勝利で幕を閉じた。
 本年度の金鹿の学級を受け持っていたのは、あろうことか傭兵上がりの新任教師だ。前節の事件によって他学級の教師が不参加であったことを差し引いても、よもや教師人生一年目の彼の学級が勝利を収めるだなんて――戦場での経験が年齢不相応にあるとはいえ、その活躍や指揮能力、教師としての才覚にはやはり目を瞠るものがあるのだろう。彼は非常に優れていた。その能力や人柄が生徒たちに好影響を与え、そして勝利へと繋がったのだ。
 着任当時には氷のようであった彼の情緒も今や少しずつ溶け始めていて、他学級を下したときに「楽勝だった」と冗談を交えながら笑うようになっていたのが、他でもないその証左である。彼には変化が訪れているのだ。
 課題後、級長三人が会して談笑に励む姿には、これからのフォドラの未来が明るいものであるという確信が溢れている。此度の勝者であるクロードが宴を開こうと提案し、他の級長が参加や開催について快諾しているあたりにもそれは大きく見て取れた。
 彼らはこれから睦まじくなる。未来には敵対する間柄になるかもしれないけれど、それでも在学中は国や学級の垣根を越えて「友人」になれるはずなのだ。同じ釜の飯を食う……というのは貴族諸侯には耐えがたいことかもしれないが、それでもきっと、今日という日を境に何かしらの芽生えはあるかもしれない。その足掛けとなるのが今回の宴であるはずだ。
 とはいえ、その宴は鷲獅子戦の参加者のみに許される場であるとウィノナは判断した。彼女は件の訓練に不参加だったのだ。彼女自身にある訓練に参加できない理由、人前で剣を振るうことができない理由は未だ解消されていなかったし、訓練とはいえ戦場で学友と――特にディミトリと斬りあうかもしれない可能性は、出来うる限り避けて通りたい道だった。
 ゆえに彼女は「先日雨に降られたせいで少々体調がよろしくない」と申し立て、結局それはすんなりと受け入れられてしまったのだ。
 だが、それが真っ赤な嘘であるということを級長クロードは知っていた。体が弱いなんて冗談にも程があることを、本当は鋼の剣すらへし折ってしまえるほどの怪力であることを、何より大きな秘密を抱えていることを、あのクロード=フォン=リーガンという男は百も承知なのであった。
 それでも彼は決して無理強いしなかった。ヒルダに向けるようなからかいも、教会を訝しく思うときの詮索も、クロードは一切ウィノナに及ばせなかった。
 ただ、彼はひとつだけ。ウィノナを、ただの友人として扱ったのだ。
「――というわけで、だ。ウィノナ、お前も来るだろう?」
「……脈絡がないわ。あと、あなたの申し出は却下させていただくわね」
「おっと、ずいぶん強情じゃあないか。そんなに俺との宴は不満かい?」
「あのね……さっきも言ったでしょう? 私は鷲獅子戦には不参加だったの。自分の都合を優先して、嘘までついて。そんな女に宴に参加する資格があるわけ――」
 言うが早いか、ウィノナの言葉など聞いていないとばかりにクロードは彼女の手を引いて歩き始める。ずんずんと歩く歩幅にはやがて男女差が見え始め、ウィノナは小走りに彼を追いかけるようになった。普段ならそれくらい気遣ってくれるだろうに、今日ばかりは、なぜ。
 ――なんて、答えなど聞かずとも明白だ。彼は此度の宴を非常に楽しみにしている。背中を窺うだけでも、彼が浮足立っているのは丸わかりだった。
「ほらほら、早く行かないと美味い乾酪が取られちまう」
「乾酪は嫌いよ! そ、そうじゃなくて、ちょっと、」
「鷲獅子戦に出てるとか出てないとか、嘘がどうとか、そんなもん関係ないだろ? 特に後者は言わなきゃ誰にもわからないさ。何より――」
 ぴたり、今度はいきなり足を止めるクロード。勢いあまってウィノナは背中に鼻をぶつけるが、くるりと振り返ったクロードの表情に何も言えなくなってしまった。
 彼は笑っている。揶揄のためでも、冗談でもなく、たたひたすら、純粋に。
「俺は、お前と一緒に宴を楽しみたいんだよ。お前だって金鹿の学級の一員なんだから」
 それ以降、ウィノナが抵抗することはなかった。

「ずいぶん張り切ったみたいじゃない、せっかくの男前が台無しね」
 クロードは食い倒れていた。久々の宴にタガが外れてしまったのか、はたまた陽気な面子にあれやこれやと突っ込まれたのか、彼は食堂の脇で草の上に体を預けている。満天の星空はもはやまぶしいとすら思えるほどに煌々と輝いていて、その美しさでもって彼のことを嘲笑っているふうにも見えた。
 ウィノナは彼のすぐそばにしゃがみ込み、覗き込むように身を屈める。不服そうな表情が少しおもしろくて、込み上げてくる笑いをなんとか腹の奥で抑え込んだ。
「わ、悪いかよ……うっぷ、たまにしか食えないもんがあったら、手を出さずにはいられないだろうが」
「まあね。でも意外だわ、あなたって少食なほうなのね?」
「お前が健啖家なだけだ!」
 叫んだおかげで胃に刺激がいったのか、クロードは苦しそうに呻いて眉間にシワを寄せる。うう……と絞り出す声は道ばたに倒れる酔っ払いさながらだ。
 そのひどく間抜けな姿には、未来の盟主だとか金鹿の学級の級長だとか、猜疑心の塊だとか、大層な肩書きなど微塵も感じられなかった。ここにいるのはただのクロードで、たった一人の男の子が地べたに横たわって苦しんでいる、そんな姿がおかしくて、ウィノナはとうとう耐え切れずに頬を緩める。金鹿の学級に引き抜かれて早数節になるが、やっとクロードという個人の姿を見た気がした。
「あなた、結構おばかなのね。可愛いじゃない」
 くすくすと笑うウィノナを見てか、クロードはまるで時が止まったかのように黙り込んでしまった。何か軽口が飛んでくるかと思って身構えていたが、彼からそういった素振りは見えない。どうしたの、と声をかけてみても何も言わない。
 クロードがやっと言葉を発したのは、ウィノナが彼のいやに膨らんだ腹部をなでさすり始めた頃だ。がばり、勢い良く起き上がった彼を見て、ウィノナはまた笑みを濃くした。
「お、お前な……! どこ触ってんだ、まったく」
「あなたが何も言わないのが悪いのよ。でも……ふふ、起き上がれたならもう大丈夫かしらね。そろそろ行きましょうか」
「行くって――あ? ヒルダたちが先生んとこに集まってんのか」
「そうよ。こんなところでふたりっきりだと逢い引きか何かに勘違いされそうだもの、早く行きましょう」
 言いながらすっくと立ち上がり、汚れていては大変だと制服を叩く。別に地面に触れたわけではないのだが、まあ、これも身だしなみのひとつだ。
 はたはたと両手を動かしながら見下ろすクロードは、どこか落ちつかない様子で視線を彷徨わせているように見える。どうしたのよ、まさかお酒でも飲んだのかしら? そう言うやいなやウィノナはクロードへ手を伸ばし、今度は自分が手を引く番だと示すように彼の手を握った。
 見てくれに不相応なほどの力でしっかりと立ち上がらされ、クロードは少々よろけた姿勢を元に戻す。軽やかなウィノナの足取りには彼女が上機嫌であることが表れていて、それは背中を見つめているだけのクロードにもしっかり伝わった。
 宴に参加する前とは立場が逆転していると、果たして気づいているのだろうか。
「――くそ、調子を狂わされるのは性に合わない」
 足音にかき消されんほど微かなクロードの独り言は、足元に落ちるよりもはやく、夜の闇に霧散するばかりだ。

 
20201109 加筆修正
20200811