僕と君とで伝う汗

「そういやぁ、ガスパール領って言うとお前の出身地じゃなかったか?」
 それは、ウィノナが金鹿の学級に編入して数日が経った頃のことだった。
 やはりというかなんというか、はたと声を発したのはクロードだ。レアにより提示された今節の課題はガスパール領の小領主であるロナート卿の討伐で、おそらくガスパールという地名とウィノナにつながる何かを思い出したからこその発言なのだろう。
 ただひとつ言うなら、その場所と機会が最悪だった。あろうことか彼は授業が終わった直後、にわかに教室内が騒がしくなる瞬間の、けれどもそのほんの数秒手前に口を開いたのだ。よりによって金鹿の学級の生徒がほぼ全員集まっていて、無駄によく通る声と気持ちの良い発声から、そんな物議を醸しそうな話題をさっくりと。特にウィノナは先日この学級に編入してきたばかりであるから、余計に視線を集めやすいのに。
 悲しいかな、ウィノナの予想は見事に的中してしまった。級長という決して無視のできない人間が声に出したのも相まって、たちまち生徒の関心はウィノナひとりに集まってしまったのだ。赤、青、緑、黄、様々な色の瞳が彼女に一点集中している。
 思わず背筋にいやな汗がつたうものの、ウィノナは自分が人よりも顔に出にくい性分でよかったと心の中で安心だけした。安心なんかしたところで今のこの状況が変わるわけでもないのだが、ただ目の前でやけにニヤついている級長への悪態だけはどんどん膨れ上がってくれる。あとで思いっきり文句を言ってやろう、そんな強い意志がなんとかウィノナに平静を装わせてくれた。ひく、と柳眉がつり上がりそうなのを必死で抑えつつ口を開く、その声は半ば嵐のように荒れ狂う心中とは対称的で、ひどく落ちついた抑揚のないものだった。
「まあ……確かに私はそこの出身ですけれど、だからって特に思い入れがあるわけでもありませんから」
 ウィノナがオフェリー伯の養女である事実もまた内外に知れ渡っていることであるので、彼女がオフェリー領の出身でないという件については誰が何を言うこともなかった。強いて言うならば養女の身でありながら「オフェリー」という姓を名乗ることが許されている理由に注目がいくことはあったものの、それも結局は彼女が何らかの紋章を宿しているから、というところに落ちついて終わりだ。秘匿こそされているが、否、秘匿されているからこそ彼女の紋章は非常に貴重かつ価値のあるものであると察されたし、そもそも彼女の養父は紋章学者という立場にある。彼は紋章学の父と呼ばれるハンネマンと師弟にも近い関係にあり、ハンネマンほどではないがそこそこ著名な人間であった。だからこそウィノナの出自も、紋章も、なんとなくではあるが暗黙の了解でもって触れようとする空気を払われていたのだ。「あのオフェリー伯が言うのならばみだりに触れるべきではない」と。
 また、その繋がりでハンネマンとウィノナも入学以前からの顔見知りであったがゆえに、彼の了承のうえでこの士官学校においても紋章の秘匿を許された。もちろんレアやセテスといった上層部の人間なら簡単に知れることであろうが、彼らは興味本位でウィノナの紋章に触れるような性格ではない。つまるところ今現在、おそらくウィノナの紋章についての仔細を知っているのは、このガルグ=マクにおいてはウィノナ本人とハンネマンのみ、というところであった。
 何はともあれ、そういった複雑な出自を持つウィノナは養父の「お気に入り」なのだ。ともすれば彼女は「養女」などではなくもっと別の理由を持って迎えられたのではないか、なんて噂すら立つほどに。
「ふうん……でもお前、四年前まではガスパール領にいたんだろ? 長いこと住んでた故郷に愛着のひとつも湧かないってのは、いささか不自然にも映る気がするが」
「体が弱いと言ったでしょう。だから幼い頃からあまり外に出してもらえなかったのです。探りを入れたいのなら止めはしませんけれど、その代わり私もあなたの生い立ちや故郷、その他諸々を根よりも深く掘って差し上げますから、どうかお覚悟を」
「すまんすまん、冗談だって。ただの純粋な疑問さ。俺だって故郷にあまり良い思い出はないが、それでも少なからず愛着はあるんでね」
 これでも心配してるんだぜ? そう言ってクロードは笑った。
 彼が肩をすくめて言葉を切れば、それが会話の終わりと判断されたのだろう、周囲の目も自然とウィノナから離れていく。……生きた心地がしなかった。あんなふうに人の目を集めるのはあまり気持ちの良いものではなく、むしろ大層居心地が悪くて寿命が縮まったような気さえする。
 関心がなくなったことに安堵してしまったのだろう、ウィノナは机に突っ伏して大きな息を吐いた。ヒルダや近くにいた数人が気遣いの言葉をかけてくれる、その厚意をありがたく受け取りつつ、けれどもウィノナはぐったりした体に鞭打ってその場を立ち上がる。どうしてもやらねばならないことがあったからだ。
 そっと足音を消し、気配をなくし、まるで暗殺者のごとき存在感で、ウィノナは目当ての背中に手が届くほどの距離までつめる。
「……逃がしませんよ」
 おのれがどんなことを仕出かしたのか、はたまたどれほどの怒りを買ったのかがよくわかっているのだろう、人の波に紛れて教室を出ていこうとしたクロードの首根っこを、ウィノナはむんずと掴んで離さなかった。
 彼のような薄ったい男に力で負けるつもりはなく、逃げられないことを悟ったらしいクロードはややもすると抵抗をやめて白旗をあげた。悪かった、許してくれ、ほんの出来心だったんだ、他にもぐちゃぐちゃと謝罪が聞こえてはくるけれど、そんなペラい言葉で許してやれるほどウィノナは決して甘くない。彼のちょっとした「いたずら」で受けた精神的苦痛は、他でもない彼自身に落とし前をつけてもらわなければ。
「厩舎まで一緒に行きましょうか。二人っきりで話がしたいので」
 口角を上げ、口元だけで笑みをかたどるウィノナはもはや悪魔のような顔をしていたと――彼女から解放されたあと、ほうほうのていで自室に逃げ込んだクロードは語る。

 
20201109 加筆修正
20200920