吐息に一歩を踏み出して

 それはなんてことない朝のこと、花冠の節も中ほどにさしかかった頃の出し抜けな出来事だった。
 ついつい足音を抑えて歩いてしまう癖をなんとか律しつつ、ウィノナはきちんと気配を出してクロードの前まで歩いていく。相変わらず寝不足なのかそれともただ単に気だるいのか、黄金の似合う級長様は机に突っ伏して今にも寝息を立てそうな具合であった。
「クロード、この間はお世話になりました。これ、一応手洗いはしてきたのですけれど、少し穴があいてしまっていて」
 微睡みかけのクロードへ、ウィノナは先日クロードに借りた麻袋を差し出す。尖った鋼片を詰め込んだのだから当然といえば当然だが、件の麻袋はところどころ破けて穴があいてしまっていた。
 残念ながらウィノナに裁縫の技術はなかったし、身につけるにも日が足りず、何より剛力の障害が大きすぎた。鋏を曲げ、縫い針を折り、まとめて糸を引きちぎる頃にはきっと袋もこの上なく無残な姿になっていただろう。
 ゆえに、彼女が選んだのはせめて麻袋を綺麗に洗っておく、という道だった。さすがに洗濯くらいは出来る。襯衣や制服はきちんと自分で綺麗にしているし、畳むくらいなら普通の人間と同じようにできると自負していた。オフェリー伯爵の養女になってから、身の回りのことはできるだけ自分でやるようにしていたから。
 ウィノナに突き出された麻袋と彼女の顔を交互に見ながら、クロードは首を傾げて何かしらをつぶやく。その言葉はウィノナの耳には入ってこなかったけれど、なんとなく悪態の類ではないことだけはわかった。彼の表情には猜疑よりも興味の色が濃かったからだ。
「おっと……俺としたことが礼を言い忘れるとは。ありがとうな、半分捨てたものだと思ってたから有り難いね」
「捨てたもの……あなた、そういうひと言が余計だと言われたりはしませんか?」
「気を悪くしたなら謝るよ。なんせ俺も驚いたんで、言葉を選んでいる余裕がなくてね」
 クロードが驚くのも無理はない……のかもしれない。
 ここは控えめに見積っても決してウィノナには縁がありそうもない、金鹿の学級の教室のど真ん中なのだ。授業開始前とはいえ他人との交流を避けているウィノナが他学級に足を踏み入れるだなんて、たしかに青天の霹靂、とまではいかないがちょっとした爆弾のようである。
 けれども彼女はやけに堂々と――もちろん控えめで淑やかなふうを装ってはいるが――この教室へ踏み込んでいて、その現実はクロードからすればやはり疑問でしかないだろう。他人に興味のなさそうな彼女が、こうして他学級に現れたうえ物を返しに来ているのはどうにも信じがたいことのはずである。
 そうこうしているうちに本鈴が鳴る。ようやっと聞き慣れてきた旋律は、やはりいつも通りの音を士官学校に響き渡らせた。金鹿の学級の生徒たちは皆それぞれの机に着席し始め、それは級長であるクロードも例外ではない。今日は抜け出さないんですね、というウィノナの視線には、お前こそ教室へ帰らないのかという意図の視線が返ってきた。
 程なくしてこの学級の担任――ベレトが教室へとやってくる。相変わらずの鉄仮面はウィノナもかくやといった具合で、まったくと言っていいほど何を考えているかわからない。最近は少しずつ表情も緩んできたような気はするが、それでもやはり彼の考えを読み取ることは難しかった。
 だから、正直なところウィノナも戸惑いだらけなのだ。この場所におのれが立っていることも、教壇に立ち、すうと深呼吸をするベレトの隣に並ぶことも。そして――
「ウィノナ=エスティア=オフェリー。知っている者も多いと思うが、彼女はもともと青獅子の学級の生徒だった。だが本日より、彼女たっての希望で当学級にて共に学ぶことになった」
 ――彼によって、この学級に迎え入れてもらえたことも。

 予想はしていた。授業が終わったその直後に、ある程度は詰め寄られるだろうと。どうして来たんだ、何のために、まさか本気にするだなんて、そんなそしりにも似た言葉を投げかけられることも覚悟の上だった。あんなやり取りを本気にしてわざわざ編入までしてくるなど人馴れしてない田舎娘のやることだろうと、もちろんそれは決して嘘ではないのだけれど、それにしたって、我ながら愚かだなとは思う。
 けれども無視ができなかったのだ。あのとき彼にかけられた言葉を、この胸に生まれたちょっとした“予感”を。何かが変わると思った。彼の誘いは一陣の風のようで、躊躇ってばかりいる自分を上に向かせる好機のように感じられた。
 だからウィノナは、この学級の担任であるベレトに金鹿の学級への編入を打診したのである。
「いや~、まさか本当にうちの学級に来てくれるなんてな! 嬉しいね、俺はお前と仲良く話がしたかったんだよ」
「あなたが興味を持っているのは、私自身ではなく私の素性や紋章についてでしょうが」
「つれないこと言うなって。お前がここに来てくれて嬉しいのは事実だぜ?」
「………………」
「これはこれは、手厳しいねえ」
 編入の挨拶と授業を終わらせて少し外を歩こうと思っていた頃、手の早いクロードに背後から呼びとめられた。真っ直ぐに「話がしたい」と言ってきた彼についていってみれば、そこは人の気配が少ない裏路地で。人を誘うにはあまりにも不穏な場所のように思えたが、おそらくウィノナが話しやすいよう、彼なりに配慮をしてくれたのだろう。
 彼の気遣いに応えるように皮を剥いで話をすれば、クロードはやはり興味津々といった具合でウィノナを見た。知らず知らずのうちに探りを入れられるだろうことは目に見えていたが、今はなんとなく気が向いたのでその魂胆に乗ってやろうと思ったのだ。
 この腹のうち、探れるものなら探ってみろ、と。
「ま、とにかくお前は今日から俺と同じ、金鹿の学級の生徒だ。よろしく頼むぜ、ウィノナ」
「……こちらこそ」
 しかし意外にもクロードはウィノナの行動を咎めることなく、むしろ熱烈歓迎といったふうに笑顔を絶やさずいるのであった。本音を言うなら戸惑っている。あんなにも軽く、口約束にも満たないようなやり取りを本気にしてしまったのに、一瞬たりとも疎むような顔をこの男はしなかった。それはただ本心を笑みで隠しているだけなのかもしれないが、ウィノナにとってはありがたかった、と言えなくもない。士官学校への入学も彼女なりに不安を抱えてのことだったので、そこに重なる編入へのためらいをこうして笑顔で取り払ってもらえるというのは、感謝してもしきれないほどの幸甚だ。
 人間というものはきっと、こうやって少しずつ絆されていくのだろうと思う。嘲りでも攻撃でもない、あたたかな厚意によって揺らいでいく。おのれの皮をじわじわと剥がされ、いつの間にか裸になり、あられもない本心をさらけ出さざるを得なくなるのだと。
 何より、このクロード=フォン=リーガンという男が、此度のように情や口八丁で人を絡めとるのがうまいのであろうということを、ウィノナはこの瞬間に深く理解してしまったのであった。

 
20201109 加筆修正
20200903