ゆら、ゆら、ゆら。わたしは、まったくおぼつかない足取りで夜の城内を歩いていた。
眠れなかった、わけではない。単純に目が覚めてしまったのだ。近頃はどうにも睡眠が浅くて、ちょっとしたことでついつい目を覚ましてしまう。
そのまま寝返りばかり続けていてもスッキリしないのは経験則で察していたので、手洗いついでに少しだけ、このミーズ城を散歩していた、というわけだ。
ただ、そうして眠気混じりに歩いていると、やはり何かしら問題を起こしてしまうもので。此度のわたしは例に漏れず――否、今までにないくらいのとんでもないことを、やらかしてしまうのだった。
◇◇◇
わたしは、諸用を済ませて自室に戻ったつもりだった。いつもどおりに廊下を進み、部屋に帰って、そのまま再び夢のなかへ旅立つ予定だったのに、なぜだか今この目に映る非現実のような、むしろあまりにも現実的すぎる光景を前にして、意味もなく瞬きを繰り返していた。
自室と思しき扉を開けたわたしの視界には、なぜだか男性の――否、他でもない見知った顔が。セリス様のすがたがあったのである。
わたしはもはや声を出すこともできず、ただ時が止まったように、セリス様の顔を見るのみだった。
「え……あ、ロヴン……?」
困惑に満ちたセリス様の瞳。おおきなそれを何度も瞬かせる様子は眠気を覚ますには充分すぎるもので、わたしは一気に血の気が引くのを感じ、思い切り後ずさってしまう。
背中に打ちつけられた扉はひどく硬くて、深夜には似つかわしくない打音を響かせてしまった気がするが――正直、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「あっ、わわっ、わっ……せ、セリス様!? どっ、どどど、どうして――!?」
「どうして、と言われてもな……見てのとおり、私は自室で休んでいただけだよ」
「じ、じしっ……あれ!? ここ、こ、ここここここはわたしの部屋では」
「うーん……残念ながら、私の部屋だよ。きっと部屋を間違えたんだね」
眉を下げて笑うセリス様は、不躾な客人がやってきたことよりも、その慌てふためく様に戸惑っているようだった。
その証拠に、居ても立ってもいられなくなったわたしが部屋を出て行こうとすると、あろうことかわたしのことを引き留めて、「話をしよう」と言うのである。
「なんだか眠れなくて……少し話し相手になってほしいんだけど、ダメかな?」
セリス様は寝台に腰かけたまま、わたしのことをただひたすらに見つめている。口振りこそ普段どおりだけれど、その瞳はひどく不安そうな色をしていた。
陰りのある瞳は今にも消えてなくなってしまいそうなほど儚くて、その瞳の揺らぎを前に、わたしは今度こそいっさい動けなくなってしまう。
――そんなふうに、言われたら。そうやって、日頃見せようともしない弱々しいすがたを晒されてしまっては、もはやこのわたしに申し出を撥ねつけることなどできるはずもない。
わたしから帰る意志がなくなったことを察したのか、セリス様は安堵したように微笑んで、わたしに向かって手招きした。ゆっくりと近づき、よく見ると、セリス様は少しやつれたようなふうでもあって、わたしは彼をそのまま寝台に横たわらせ、傍らの椅子に腰かける。
セリス様はすぐに起き上がろうとしたけれど、わたしの無言の圧に観念してくれたらしく、程なくして完全に体を敷布に預けてくれた。
「突然すまないね。こんな深夜に引き留めてしまって」
「いえ! そもそもわたしが誤って部屋に入ってしまったことが原因なので、セリス様が気に病むことはありません」
「そう……かな。……ううん、ありがとう」
セリス様の瞳は揺れる。不安と安堵を交互にたゆたわせた天色は、不安が引けば安堵が見えて、逆もしかりと、まるで波打ち際のようにくるくると色を変えていた。彼のなかに巣食っているのは、わたしの知り得る安易な言葉で表せるほど単純なものではないのだろう。
――ずっと、一緒にいたはずなのに。イザークで長く共に過ごして、同じものを見てきたはずなのに、どうしてそれぞれに刺さる視線や、人々の期待に、これほどの差がついてしまったのだろう。
ティルナノグを出て数ヶ月。そのわずかな期間に、わたしはセリス様の細い肩にまとわりつく宿命や責務を何度も目の当たりにした。
彼が特別な人間であることは理解している。それでも、幼い頃よりその背中を見てきたわたしは、どうして彼がこんな目に、と思わずにはいられなかった。
「お……おつらい、ですか?」
気づけばわたしは、考えるよりも先にそれを口にしていた。ただの感情の押しつけかもしれないが、どうにも言わずにはいられなかったのである。
しかしすぐに後悔の念が襲い、つい、口元を覆ってしまった。――失言だ。こんな毎日がつらくないわけはなくて、きっと歯を食いしばって耐えているだろうことを、みだりに刺激するような真似をしてしまった。
なんて無礼者で、どれほどの考えなしだろう。わたしを襲う後悔はすぐにおおきな塊となり、頭からすべて飲み込んでしまう。
はやく撤回しなければ――しかし、わたしが二の句を次ぐ前に、セリス様のほうが先に口を開く。
「ロヴンは、ぼくが思っているより何倍も敏いんだね」
……セリス様は諦めたように柔らかく笑って、わたしの言葉を認めたのだった。
「……怖いんだ。ぼくを見る人々の目が」
天色の瞳を伏せながら、静かに嘆くセリス様。疲れきったようでもあるそのすがたに、わたしはやはりじっとしてはいられなくて、力なく投げ出されている彼の手を、おそるおそる、握った。
セリス様は一瞬びくつくような様子を見せつつも、しかし、わたしのそれを撥ねつけるような真似もしない。優しく、おだやかに、わたしを受け入れてくれたようだった。
わたしは、セリス様の恐怖が少しでも逃げてゆくようにと願った。わたしなんかには肩代わりできないほど重たいそれを、せめてこの身で、少しでも発散してもらえれば、と。
「みんな、神でも見るような目でぼくを見るんだ。ぼくはぼくでしかないのに、まるで人と思われていないようで、時おり強い恐怖と違和感を覚えてしまう。それが悪感情ではないことくらい、わかっているつもりなんだけど――」
取り留めもない吐露は、物悲しくて、痛々しかった。
けれどその苦痛は、わたしには到底の理解も及ばず、共感すらできないことだ。わたしはそんなふうに見られたことなどないし、これからだってずっと、あり得ないことだと思う。
グランベルの圧政下にある人々の苦難や鬱憤のすべてが、神格化という形でセリス様に向かっている。その事実は埒外のわたしにとってもひどく重たく、苦しくて、受けとることすらできないものだ。
その、ある種の拒否反応はわたしの体にすぐさま表れて、ただ言葉で聞いただけにも関わらず、わたしはそれを飲むことができず、涙としてあらわしてしまう。セリス様はこれを直接ぶつけられ続けているのかと思うと、わたしの口からは途方もない嘆願がこぼれ落ちそうになった。
しかしその嘆願は、口ではなく、わたしの手にあらわれた。軽く添えるばかりだった彼の手を、ぎゅ、と両の手で握る。素肌のままのセリス様の手は度重なる戦いで皮も分厚く、傷だらけになっており、彼の歩む道の過酷さを示していた。
わたしの涙はとうとうセリス様の頬に落ちて、わずかな雫の落ちる音を聞いたのか、再び天色が顔を出す。わたしの涙に気づいたセリス様はやはり申し訳なさそうに顔をゆがめていて、寄り添い、慰められるべき彼にそんな顔をさせてしまうことがひどく歯がゆくて、悔しかった。
役に立たないわたしの口は、意味のない謝罪をぽろぽろと吐き出す。
「ごめん……なさい。セリス様……」
「どうして謝るんだい?」
「だってわたし、セリス様の苦しみがわからないんです。あなたと同じ場所に立つことができない。役に立つどころか、こんなふうに泣くことしかできなくて……そのせいでセリス様に気を遣わせてしまうってわかってるのに、どうしても涙がとまらなくて――」
セリス様は何も言わない。叱る言葉も、ごまかしも。ただ、彼の手を握るわたしのそれを引き寄せて、そっとおのれの額に押しつけるくらいだった。
セリス様は、何を思っているのだろう。自分の置かれた現状を、泣いてしまったわたしのことを。わたしは読心の心得などないので、彼が何を考えているかなどいっさいわからないが――それでも、ただ暗いばかりではないことを、光のもとにあることだけを、ひたすら強く願っている。
「……なんだか、少し懐かしいな。昔は、こんなふうに手を繋いで寝ていたね」
「そ……そんなの、うんと小さい頃の話じゃないですか。十年以上も前ですよ」
「それはそうだけど――ねえ、ロヴン。この戦いが終わったら、また昔みたいに手を繋いで寝てみない?」
「ええっ!?」
セリス様の爆弾発言に思わず飛び上がると、それを生んだ張本人は、まるで噛み殺すようにくすくすと笑っている。わたしが目を白黒させているのが面白いのだろうか、なんとなく釈然としないが、さっきよりは安らかな顔をしたセリス様が見えて嬉しいのも確かだった。
「せ、セリス様……! からかうのはっ、やめてください!」
「ふふ……ごめんって。でも、ぼくはべつに冗談を言ったつもりはないよ」
「え――」
「スカサハや、ラクチェたちにも声をかけて……ふふ。何人、ゆるしてくれるかな――」
次第にセリス様の呂律はとろとろになってきて、いよいよ眠気が訪れているらしいことがわかる。
彼の爆弾は未だ留まる気配を見せないが、その眠りを妨げないよう、平静を保とうと心がけた。……できうる限り。
「……ねえ、ロヴン。きみの心はあたたかいね。ぼくのことを痛んで、ぼくのために泣いてくれる」
「そ、それは……だって、セリス様のことが心配で、わたし……」
「ありがとう、ロヴン。……不思議だね。きみの優しさは、まるで灯火みたいだ――」
言いながら、とうとうセリス様は寝落ちてしまったようだった。わたしは彼のあどけない寝顔に息を吐きながらも、先立っての言葉をゆっくりと、可能な限りで反芻する。
――ねえ、ロヴン。この戦いが終わったら、また昔みたいに手を繋いで寝てみない?
しかしそれは、まるで魔法の呪文のごとく、すっかりわたしの体温を上げて、心をぐちゃぐちゃにかき乱してゆく。
(セリス様と同衾なんて、わたし、不敬罪で殺されたりしないかな。……殺されなくても、心臓が爆発しちゃいそう、だけど――)
なんとか平静を取り戻すため、深呼吸を繰り返す。実際問題、わたしは夜が明ける前にこの部屋を出て、誰にも見つからないよう自室に戻らなければならない。
できるだけ早急に動き出す必要があるのだけれど、依然としてわたしは、まるでセリス様に囚われているかのごとく、動くことができなかった。
ティルナノグを出立したときに封じてしまった思い。彼の妨げにならぬように。わたしたちはグランベルの、ひいてはユグドラル全土のために征くのだから、浮ついた感情なんて持っているだけ邪魔だと思っていた。
しかし、その想いが今、張り裂けそうなほどに膨れ上がっている。目の前にいる想い人はまるで揺さぶるような言葉を吐いて――セリス様に限ってそんなことはないだろうけれど――わたしの誓いをすべて取り払い、溢れさせるようなことをするのだ。
「わたし……想っていても、いいのですか。セリス様――」
健やかな寝顔に問いかけても、やはり答えはいっさい帰ってこなかった。
結局わたしがこの部屋を出られたのは、とうとう日が昇る寸前くらいだったのだけれど――翌日の戦果については、また別のお話なのである。
2022/11/16