花綻ぶ微熱

 草芽の色をしたアグネは、さながら春の象徴であるかのような女性だった。
 彼女がそこにいるだけで、周りに笑顔の花が咲く。マーニャ隊の仲間だけでなく、時には城下の市民までもが彼女にとっては友だちだった。
 彼女がそこにいるだけで、皆の表情やまとう空気がぱっと明るくなるのだ。
 見てくれが華やかな女性であることも関係しているのかもしれないが、それ以上に彼女は周りを慰撫することに長けていた。落ち込んでいる人には率先して声をかけているようだったし、彼女と一緒に歩いていると、あちらこちらから声がかかる。
 ひどく、慕われているのだと思った。時には重い悩みですらも彼女には打ち明けてしまうのだと――そう言っていたのは、セイレーン城の近くに住む人の良さそうな老人だった。
 アグネの手にかかれば、鬱ぎこんだ孤児ですらもたちまち心を開くのだ。そんな光景を、この短い数ヶ月でアゼルは何度も見てきた。

 
  ◇◇◇
 

 なんとなく、落ちつかないような気がした。何かがあったわけではないが、何をするにも身が入らないようで、とうとうアゼルは読書ですらも放り投げてしまった。
 このまま無益な時間を過ごすわけにもいくまい――そう発起して自室を出たあと、しかし、そう都合良く用事が生えてくるわけでもないので、今のアゼルにできたことはセイレーン城のなかを散歩することくらいだった。
 廊下を渡り、中庭を抜けて……とうとう正反対の方角までやってきた頃。静寂に染まりきった廊下の奥のほうから見知った声が聞こえた気がして、アゼルはまるで誘われるように声のほうへと歩いてゆく。
 そこにいたのはシアルフィ公子であるシグルドと、どことなく楽しそうな顔をしたアグネであった。どうやら二人で話し込んでいたらしい。

「それではシグルド様、ごきげんよう。どうか、くれぐれも思いつめないように」
「ああ……ありがとう、アグネ。突然すまなかったな、無関係のきみにあのような――」
「とんでもないです! あたしにできることなら、いつでもお声がけくださいね」

 そう言うアグネの横顔は、いつもアゼルが見ているそれよりまばゆく思えた。
 二人の間に漂うのはひどく睦まじい空気で、それはまるでアゼルのことを遠まわしに拒んでいるような、独特の香りを伴っている。
 ――ぐずり。疎外感を自覚した途端、胸の奥に煙が満ちた気がして思わず咳き込んでしまう。慌てて柱の影に隠れはしたが、時すでに遅し。咳の拍子に見つかってしまったらしく、涙で滲んた視界の向こうに駆け寄ってくるアグネが見えた。

「アゼル、大丈夫!?」
「あ……ああ、大丈夫だよ。ごめんね、盗み聞きみたいなことをして」
「それは全然構わないけど……ていうか、どうしてこんなところに?」

 ごもっともな疑問である。アゼルは少しずつ薄れてゆく煙の最後のひと粒まで払うように、絶えず口を動かした。

「なんとなく、落ちつかなくてさ。それで城内を散歩してたら、たまたまここを通りかかったんだよ」
「そうなの? じゃあ、声をかけてくれればよかったのに」

 アグネの声は、なんとなくであるが弾んでいる。いわゆるご機嫌というやつだ。

(シグルド公子と、楽しく話してたんだな……)

 途端、再び煙がもうもうと立ち込めたような気がする。――なんだこれは。アグネがいると出てくるのか。どうして? わからない。混乱のまま、アゼルは軽い挨拶だけしてその場を離れようとする。
 しかし、予想外にもアグネはアゼルの後を追い、隣に並び立ってきた。待ってよ、と言いながら追いかけてくる彼女にたいして、どうしてだかひどく嬉しく思う自分に、アゼル自身が一番驚く。

「アグネは……いつもあんなふうに、シグルド公子と話してるの?」

 増えたり減ったり、忙しない胸の煙。それに集中していたせいか、頭で考えていたことをそのまま口に出してしまう。

「うーん……それほど頻繁ではないかしら? セイレーン城に来たときはいつも挨拶するけれど」
「そう――なんだ、」

 ――わからない。二人が親しくしていることを嬉しく思いながらも、心のどこかで面白くない、腹立たしいと思ってしまう、自分が一番わからない。
 アゼルの様子がおかしいことを察したのか、アグネは沈痛な面持ちでアゼルの顔を覗き込む。

「……何かあったの?」

 彼女はひたすらまっすぐに、優しくアゼルを気遣ってくる。
 しかし今は――今だけはその優しさがひどく痛い。アゼルの表情は殊更に暗くなり、左半身に刺さる彼女の温かさによって、心が悲鳴をあげるようであった。

「……ううん、ぼくは大丈夫だよ。そんなことより、シグルド公子と何の話をしてたか聞かせてくれるかい?」
「えー、あたしたち? ……べつに、変わった話はしてないわ。シレジアのことをお教えしたり、奥様のことを聞いたり……他愛もない話ばかりよ」

 言いながら、アグネは眼下、ぴかぴかの床に視線を落とす。
 セイレーン城は小さい城ながらも手入れが行き届いていて、廊下にあしらわれた大理石も顔が映るくらいしっかりと磨き込まれている。天井の集合灯は大理石を鈍く輝かせ、反射光が幾筋も通り、また違った趣を醸し出していた。
 数多の光を跳ね返す大理石の細工も、ヴェルトマーで見ていたそれとは似ても似つかない様式や材質で、この城の造りら装飾をあらためて目に入れるたび、この場が祖国ではないことを実感する。

「……シグルド様、お優しい方ね。あたしたちにも、ペガサスにも……もちろんこの城の侍女たちにも、とっても良くしてくださるの。奥様の――ディアドラ様のことも本当に大切に想っていらして……とってもステキ」

 刹那、ふと芽生えた違和感。アグネが言葉を切る頃にはすっかり見えなくなっていたが、しかし、アゼルの瞳はそれを見逃してくれなかった。
 ――どうして、そんな顔をするのか。ほんの一瞬、まばたきの間に消えてしまったそれは恋の終わりにも近しい哀愁を漂わせていて、まるで伝播するようにアゼルの顔まで暗くさせる。
 そうして脳裏をよぎったのは先日のアグネの言葉だった。……気になる人がいる。シレジアのことに興味を持ってくれて、天馬にも優しく接してくれる、とても繊細で優しい人。
 もしかして、アグネは――

「きみが言ってた“気になる人”って……もしかして、シグルド公子のこと?」

 彼女の想う男性像にシグルドが重なった瞬間、考えるよりも早く口に出してしまっていた。どうやら、今日は迂闊に口を滑らせてしまう日のようだ。
 アゼルの不用意な発言に面食らったのか、アグネは大きな目を何度も瞬かせてアゼルを見る。口をあんぐりと開けた顔はどことなく間抜けなふうに見えて、こんな状況じゃなければ思い切り笑ってやれるのに。

「えっ……ど、どうして?」
「どうして、って……そもそもきみが言ったんじゃないか、気になってるのは優しい人だって」
「そ、それはそうだけど……でもあたし、シグルド様をそんな目で見たことはないわ」
「でも――」
「ばっ……ばか! アゼルのバカ!!」

 声を荒げて否定するアグネに、今度はアゼルのほうが目を見開く番だった。
 当のアグネもバツが悪そうな顔をしていたが、しかし、ここで引き下がるわけにはいかないとでも思ったのだろうか。彼女はアゼルから距離を取るどころか、むしろぐいと近づいてきて――

「あっ、あ、あたしが気になってる人は、シグルド様じゃなくて――」

 桃色の唇が言葉をつむぐ。まるでコマ送りのように感じられるそれを、アゼルは全神経を集中しながら追いかけた。

 

「――アグネ! はしたない真似はやめなさい!」

 しかし、待ちわびたそれがアゼルのもとに届くことはなかった。アグネの声を聞きつけたらしいマーニャによって、すべて取り払われてしまったからだ。
 隊員の無礼に眉をひそめるマーニャは、アグネにたいしていささか厳しい目を向けている。

「姿が見えないと思ったら……あなたって子は本当に、もう。――申し訳ございません、アゼル様。この子にはきちんと言い聞かせておきますので」
「あ……いいえ、とんでもないです。むしろぼくが怒らせるような真似をしてしまったので、どうか怒らないであげてください」
「ですが――」
「この通りです」

 アゼルが頭を下げると、マーニャはひどく慌てた様子で言葉を切り、アゼルに姿勢を正すよう言う。わかりました、と呑む様子は少しばかり納得のいかないふうであったが、隣国とはいえ公子相手に強く出ることはできないだろうと見越しての行動だ。

「アゼル様の頼みであるなら、今回はお咎めなし、ということにいたしますわ。……ほら、アグネ」
「……ごめんなさい。あたし、つい頭に血がのぼってしまって、はしたない真似を」

 アゼルに負けないくらい深く頭を下げたアグネは、やがてマーニャに引きずられながらアゼルのもとを去ってゆく。泣きそうに歪んだその顔がひどく印象的で、まばたきを何度繰り返してもいっさい消えてくれなかった。

(なんだか、少しおかしかったな。ぼくもだけど、アグネも)

 二つ並んだ背中を見送りながら考える。どうしてあんなことを口走ってしまったのか、そして、アグネが何を言おうとしたのか。
 落ちつかない一日は、どうやらまだまだ続くらしい。

 
2022/11/03