交差

「……どうしたのよ、またそんなにぼうっとして」

 セイレーン城の中庭にて、木陰の下で空を眺めていたときだった。天馬の羽音が聞こえた数分後、ひょこんとアグネが顔を覗かせたのである。
 シレジアの冷気に霞んだ空がいっぱいに広がった視界のなか、突然に飛び込んできた草芽の色。春の息吹を思わせるような色彩に、ぼんやりしていたアゼルの意識は一気に覚醒する。
 アグネはやはり笑っていた。疑惑と不安で鬱屈とした、アゼルの心中とは裏腹に。

「マーニャ様、快諾してくださったわ。『あなたはいつも懸命に尽くしてくれているのだから、たまには休んでも罰は当たりません』ですって」

 相棒の天馬は専用の厩で休ませてきたようで、アグネは珍しく一人でここにやってきた。
 シレジアには天馬騎士が多いためか、グランベルと違ってそちらの技術が発達している。天馬たちにとって最適な環境となるよう隅々まで配慮されているし、何よりシレジア国民は皆、彼らに対する敬意や愛情のいっさいを忘れることはない。
 グランベルでは見られない様式はひどくアゼルの興味を引いた。思えばアグネと親しくなったきっかけも、彼女がセイレーン城の色々について教えてくれたからだったか。

「……で、今日はなんなの? もしかして……逢引きのお誘い?」
「えっ!? べ、べつにそんなつもりじゃ――」
「あはは、わかってるって。冗談よ、冗談」

 けらけらと笑うアグネは、とても自然な動作でアゼルの隣に腰を下ろす。まるでそれが当たり前であるかのような距離感であるが、不思議と嫌な感じはしなかったし、アゼル自身もそれを当然のように受け入れていた。

「あれでしょ? アゼルはユングヴィのエーディン公女が好きなんだって、レックスに教えてもらったわよ」
「ばっ――い、いつの間に!? レックスのやつ、口が軽すぎじゃ……!」
「まあまあ。でもね、べつにレックスが自分からベラベラ喋ったわけじゃなくて、あたしが気になって聞いたのよ。『もしかして、アゼルってエーディンのことが好きなの?』ってね。そしたら『可愛いやつだろ?』って笑いながら言うんだもの」

 まさか、アグネにまでバレていたなんて――! 自分ではそれなりに隠し通せていたつもりだったけれど、どうやら現実はそううまくはいかないらしい。
 頭を抱えたまま何も言えないでいると、アグネは少しばかり身を乗り出して、アゼルの恋事情を聞き出そうとしてきた。

「ね、ね。いつから好きなの? 彼女のこと!」

 まさに興味津々、といった具合である。年頃の女性らしく恋愛沙汰に目を輝かせる様子は、彼女がペガサスを操る騎士である以前に一人の人間だということを、強く知らしめてくるようだった。
 その純粋で勢いのあるさまに、ついつい口を開いてしまう。

「――子供の頃。初めてエーディン様を見たとき、本当に綺麗な人だと思って……」
「確かにすっごい美人よね! あたしもびっくりしちゃった。こう……まさにお姫様って感じで」
「そうなんだ。その頃からずっと、彼女のことだけを想ってきたんだけど――」

 言いながら、ふっと目を伏せる。シレジアの陽光を遮った先、混沌とした暗闇のなかに現れたのはエーディンのたおやかな笑みだ。
 幼い頃から思い慕ってきた。昔なんかは特に彼女のことばかりを考えていたし、いつかあの高貴な姫に見合うだけの男になろうと努めてきた。
 その結果が今に表れているのかはわからないけれど――しかし、この動乱の世を生き抜くだけの力は与えてもらったのではないかと、そう思えてならない。
 まるで彼女を言い訳のようにしてヴェルトマー家から飛び出してきた身であるが、ここ数年、あの日の出奔を後悔したことなんて一度もない。戦いに次ぐ戦いで荒んだ心を浄化してくれる、彼女の治癒術と優しい笑みが、いつだってアゼルのことを奮い立たせてくれるのだ。
 エーディンは、アゼルにとっていつまでも消えない光だった。

「ふうん……なるほどぉ、つまりは骨抜きってわけね」

 感傷に浸っていたおり、冷やかすようなアグネの声が耳をつつく。
 彼女がいったいどんな表情をしているのか――その顔を見ずともわかるくらい、それはそれは特徴的な声色だった。

「あ、あんまり茶化すなよ……そう言うアグネはどうなんだい?」
「あたし? あたしは……そうねえ――」

 少しばかり目線を落として、アグネは深く考え込む。爪先のすぐそこにある小石を見つめるその瞳は、普段の快活な彼女からは想像できないくらいひどく静かで、アゼルの心臓をにわかに刺激する。
 アグネはしばらくのあいだ思案に耽っているようだったが――思い当たる相手がいるのか否かは、ほんのり染まった彼女の頬が何よりも饒舌に喋っていた。

「その……べつにね、まだ好きって決まったわけじゃないんだけど……気になる人はいる、かな」
「気になる人? それって、どんな?」
「ど、どんなって……」

 アゼルの問いに惑うアグネは、打って変わってしどろもどろなふうになる。視線をきょろきょろと彷徨わせたかと思えば唇を開いたり閉じたりと、顔だけとってもひどく忙しないことになっていた。
 そのまましばらく慌てふためいたら落ちついたのか、やがて彼女はゆっくりと話し始める。

「……優しい人よ。天馬にはとても丁寧に接してくれるし、シレジアのことにも興味を持ってくれるの」
「シレジアのことにも……ってことは、この国の人ではないんだ?」
「えっ!? え、ええ……そうね。出会ってから、まだ一年も経ってないわ。とても繊細で、気遣いも細やかで……あたしとは正反対な人なの」

 もごもごと言い淀むすがたもひどく新鮮である。アグネはマーニャ隊でもひときわ明るく溌剌としていた覚えがあるから、こんなふうにどもる様子はいやにいじらしく見えるのだ。
 どれくらい“そう”であるかと言うと、アゼルの心の奥にあるささやかなイタズラ心がじんわりと刺激される程度には、非常に好ましいものであった。
 先立ってのアグネに負けないくらい顔をにやつかせて、アゼルは冷やかすように言う。

「へえ~……なんだ、アグネのほうこそ随分と惚れ込んでるみたいじゃないか」
「うっ――うるさいわね! もう、こんな話しかしないならあたし行くわよ」
「あはは、ごめんって。冗談だよ。謝るからさ、もう少しここにいてほしいな」
「む……」

 立ち上がりかけたアグネだったが、アゼルの言葉を受けて再び座り直してくれる。いささかむくれているようにも見えるけれど、まあ、すぐに機嫌を直してくれるだろうことを祈って、あえてそのままにしておいた。
 頬を膨らます彼女の横顔からは、先刻に見たようなアルヴィスの面影など露ほども感じられなかった。

(……やっぱり、気のせいだったのかな。アグネに対して覚えた“畏怖”は――)

 改めて見ると――否、普段どおり目に入れるだけでも、アグネはただの可愛らしい女の子でしかない。見てくれも、物言いも、彼女の纏ういっさいがアルヴィスとは重ならない。
 足元に這いずってきたあの悪魔のような小火も、きっと疲れが溜まっていただけだ――そう思い直して、アゼルは再びアグネを見やる。予想通りすっかり機嫌を直していたアグネは大きな瞳を瞬かせながらこちらを見ていて、改めて目があった途端、なぜだか胸がざわついた。
 ――年頃の女の子だ。天馬に乗って清廉に舞う天馬騎士でありながらも、彼女はアゼルと一、二歳しか変わらない、ともすれば密やかに日々を過ごしていた町娘であっただろうに。
 血で血を洗う戦争に加わる必要なんてなかったはずの、ただの女の子なのだ。

(アグネにも、気になる人がいるんだ。ぼくがエーディン様を想うみたいに――)

 反芻するほどにざわつきは大きくなる。やがてそれはこの肌を突き破ってしまいそうで、一抹の不安がアゼルを襲った。
 自分にはエーディンがいるのに。彼女のことを想いながら、今までやってきたつもりなのに――
 刹那、畏怖とはまた違った違和感がアゼルの足元から這い上がってくる。それはまるで、初めて彼女と相見えたときに襲った霹靂よろしい衝撃の一端のようでもあった。

(ぼくは、アグネの向こうに何を見ているんだろう)

 怪訝そうにこちらを見てくるアグネに曖昧な笑みを返しながら、アゼルは胸の奥にあるモヤを払うように、彼女との談笑を再開するのだった。
 

2022/10/30