もえる草芽の色をした、

 シグルド軍がシレジアに落ち延びてから、気づけば半年の月日が経とうとしていた。
 寒冷な気候はシレジア以南で生まれ育った諸君に厳しく当たることもあったが、その無慈悲な冷たさもラーナ王妃の温かさによっていっさいが融解する。
 苦難ばかりでままならない日々であるものの、決して恵まれていないわけではない。反逆者の汚名を着せられた一行にすらも、こうして人の優しさに触れる機会があるのだから――
 シグルドたちは、ひどく不安ながらも静かな日々を、このシレジア・セイレーン城において過ごしていたのであった。

 本日は、マーニャ率いる天馬騎士団がセイレーン城を訪れる日だった。この半年ですっかり顔なじみになった天馬騎士たちは、いつもシグルドたちの境遇を痛み、寄り添うように触れ合ってくれる。
 天馬は清らかな乙女にしか扱えないという逸話があるとおり、この国の天馬騎士は誰もが高潔で清廉なふうであった。
 とくに近頃親しくなっていたのは、ヴェルトマー公子であるアゼルと、天馬騎士団の一人、アグネである。育った場所、持つ力、性格すらも噛み合わない二人であったが、なぜだか意気投合し、いつしか騎士団がセイレーン城に立ち寄るたび談笑に励むようになっていた。

「――ねえ、アゼル。何か気になることでもあるの?」

 突然に話しかけられて、アゼルは思わず携えていた魔導書を取り落としそうになった。無意識のうちに熱視線でも送っていたのだろうかと、つい、頬が熱くなってしまいそうだ。
 しどろもどろになりそうなのをなんとか取り繕い、極力静かに言葉を返す。

「あ――ごめんね。こんなふうに天馬を見る機会なんてほとんどないから、つい」

 どうやら、彼女の相棒である天馬にじっと目をやってしまっていたらしい。いつもは数人、数頭で固まっているがゆえに、彼女と天馬が一対でいることはそれほど多くなかったのである。
 好奇心を隠せないおのれを恥じつつも、しかし、アゼルは目を逸らすような素振りをいっさい見せなかった。彼女なら――アグネなら快く許してくれるだろうことを、この半年で理解していたから。
 案の定、アグネは拒むようなことも言わずにアゼルの言葉を受け入れた。隣で佇む天馬にも、暴れるような気配はない。

「もしかして、グランベルには天馬がいないの?」
「そんなに馴染みはないかな。僕もグランベルのすべてを見てきたわけじゃないから、正直なんとも言えないけど……もしかして、シレジアの人でなければ扱えないとか?」
「どうかしら? あたしだってシレジアの生まれではないもの、血筋とかはあまり関係ないような気がするわ」

 アグネからの返答に目を見張る。
 口をあんぐりと開けたアゼルの表情が面白かったのか、アグネは小さく吹き出してから言葉を次いだ。再び強く刺激されたアゼルの好奇心を、もしかすると満たしてくれるのかもしれない。

「お母さんはシレジアの人なんだけどね、あたしはグランベルで生まれたみたいなの。……えーっと、確か、どこかの公爵様のところにいたんだったかしら」
「公爵様の?」
「ええ。でも、あたしが小さい頃にお屋敷を追い出されてしまって……その後すぐにシレジアに落ち延びて、女手ひとつであたしを育ててくれたのよ」

 だからあたし、お母さんには感謝してるの。あたしのこと、最期まで気にかけてくれていたから――
 事もなげに笑ってみせるアグネを前に、アゼルはまるで足元が燻っているような、恐ろしい炎がすぐそこまで迫ってきているかのような恐怖心をおぼえる。
 それはまるで、異母兄であるアルヴィスの冷えきった横顔を前にしたときに見る光景とよく似ていた。
 例えるならば、陽光と陰り。相反する要素であるはずなのに、どうしてそのふたつを重ねてしまったのか――今のアゼルには直感の実態を掴むことができず、何度か瞬きをして幻覚をはらうのが精いっぱいだった。

「アグネ――そうか、君もつらい思いをしてきたんだね」

 瞬きの合間に、なんとか言葉を吐く。間に合わせのようなそれであったが、しかし、彼女を労る気持ちは心からのものだ。

「そうでもないわ。小さい頃のことなんてほとんど覚えてないし、過去をくよくよ悩むよりは、これからをどう生きるかのほうがよっぽど大事だもの」

 シレジアの銀世界が反射する太陽の光が、鋭くアゼルの目に刺さった。ちか、ちか。目の奥で暴れまわる痛みを逃がそうと、眉間に思いきり力を入れる。
 ――なぜだろう。アグネの言葉やふるまいをひどく立派だと思う反面、まるで遅効性の毒でも食らったかのように、腹の奥がじくじくとする。蝕むような傷が広がり、やがてそれがこの身のすべてを覆ってしまうような錯覚すら見えた。
 好ましい人であるはずなのに。この戦いが終わったあとも友人として付き合っていきたい、お互いを高めあうような関係でありたいと思う相手なのに、どうしてこんなふうに思ってしまうのだろう。
 それこそ、まるでアルヴィスに対するそれと同じではないか――

 
「――ル、アゼルってば!」
「うわっ!?」
「もう、どうしたのよ。いきなりぼーっとしたりして」

 突如として現れたのは、ふくれた顔と不機嫌な声。視覚と聴覚をすっかり支配するそれに思わず後退りしてしまったが、彼女はそれを無理に問いつめるような真似はしなかった。

「えっと……ごめんね。なんだか、兄のことを思い出してしまって」
「お兄さん?」
「うん。ぼくの兄――現ヴェルトマー公爵、アルヴィス卿だよ」
「そう……でも、どうして急にお兄さんのことを? やっぱり故郷が恋しい?」
「……いや。ぼくは自分の意志で家を飛び出してきたから、それほどではない、と思うんだけど――」

 アゼルの瞳に映るのは、怪訝そうに首をかしげるアグネのすかただ。天馬騎士らしくまばゆい草芽の色をした髪が、風に吹かれて揺れている。
 アルヴィスの真紅の髪を思えば、これも対称的なかたちをしている。……どこをとっても、何を見ても、いっさい重ならない二人であるはずなのに。

「……ねえ、アグネ。このあと時間はある?」
「え? ……そうね、マーニャ様にお願いすれば、空けることはできると思うわ」
「じゃあ、もしも大丈夫そうならぼくに時間をくれないか。もう少し、きみと話してみたいんだ」

 いくら親しくなったといえど、彼女もなかなか多忙であるがゆえに、まとまった時間をとって話す機会は今までほとんどなかったのである。
 アゼルは、これを好機として捉えた。二人で膝をつきあわせたい。親睦を深めるためにも、この感情の出処を探り出すためにも――今こそ、彼女とじっくり話してみるべきだと思ったのだ。

「いいわよ。じゃあ、今からマーニャ様のところに行ってくるわね」

 アゼルの打診を受け、アグネは天馬とともに去ってゆく。逆光になった背中はやはりアゼルの瞳を刺すが、その痛みも先ほどよりは和らいでいるように思えた。
 ――これで、解き明かせるだろうか。胸の奥にくすぶり続ける違和感を抱きながら、小さなため息を吐き出した。

 
2022/10/28