今日の佳き日に

 この寝台が体に馴染み始めたのは、果たしていつの頃からだったか――少しずつ日常に溶け込んできたそれのうえで、重たいまぶたをゆっくり開く。
 昨日の疲れも抜け切らないまま覚醒したのは、鼻腔をくすぐる乾酪の香りに誘われたからかもしれない。我ながらなかなかに現金なやつだと、寝起き間もない頭でぼんやりと考える。しかし、瞬きに負けず劣らずの緩慢な動きで体を起こすやいなや、悲しいかな、昨夜の宴で飲みすぎたらしく頭がガンガンと痛んで眩暈がした。
 嗚呼、昨夜はとりわけ、浴びるように酒を呷ったものだから――ならばこの惨事もやむなし、というやつである。おのれの情けなさや不甲斐なさに二日酔いの頭痛があわさり、地獄に片足でも突っ込んでいるような苦痛がじんわりと襲い来る。ため息まじりに頭を抱えているとやがて人の気配が近づいてきたのを感じ、頭痛を刺激しないよう、視線だけを動かした。
 立派な天幕の入り口をめくって顔を出したのは、想像通り、愛おしい妻であるウィノナだった。

「あら……やっと目が覚めたのね。もうお昼過ぎよ」
「……ぅそだろ」
「私がそんな嘘を吐くと思って? どうしても気になるなら、眠気覚ましも兼ねて日光を浴びてくるといいわ」

 どことなく辛辣な物言いに、おのれのしでかしたことの重さがじわじわとのしかかってくるような気がした。

「はは……今日はいつにも増して手厳しいな」
「静止の言葉も聞かずに飲んだくれた人に言われたくはないわね」

 案の定、ウィノナは昨夜クロードが飲み明かしたことについて思うところがあるらしい。つっけんどんなふうに顔を背けて、涼やかな目元がいつもより冷たいように見えた。
 ……それもそうだ。昨夜の宴の際、彼女は再三静止の声をかけてくれていたのに、その言葉を無視してついついハメを外してしまった結果の、この有り様なのだから。此度のような不届き者に対して無条件で優しくしてくれるほど、ウィノナは甘い人間ではない。
 二日酔いにあえぐクロードを横目に、ウィノナは小さく嘆息して台所のほうへと歩き出す。何かしらの食器の鳴る音をさせたあと、戻ってきた彼女は硝子坏にたっぷりの水を携えていた。促されるまま受け取り、ゆっくりと飲み下す。
 近場の河川で汲んできたらしいそれはうんと冷え切っていて、宴の名残りで火照った体をすっかり冷やしてくれる。体のなかを冷たいものが通っていくのが気持ちよくて、硝子坏いっぱいに入ったそれをあっという間に飲み干してしまった頃には、クロードの意識もいくらかはっきりしたものになっていた。

「少しはすっきりしたかしら?」
「ああ……なんとかな。ありがとう。とはいえ、まだ――」
「じゃあ、頭の体操でもしてみましょうか。クロード、あなた、今日が何の日かわかっていて?」

 寝台に下半身を囚われたままのクロードの隣に、ウィノナは静かに腰かける。そして、顔つきは険しいながらもなんとなくそわついたような、甘ったるいような目で、ちょっとした問いかけを投げかけてきた。
 ――今日が、いったい、何の日か。言われてすぐにピンとくるものはなかったけれど、少しずつ強まり始めた夏の暑さと、それに伴った気だるさ、他でもないウィノナの態度が、すぐに答えまで導いてくれた。
 はた、と目を見開いた様子に、クロードが答えにたどり着いたことを察したのだろう。ウィノナはこてん、と体を預けながら、つぶやくように言い放つ。

「そう。今日は青海の節――もとい、七月の、二十四日でしょう。あなたの誕生日よ」

 慣れ親しんだフォドラの暦を訂正して、パルミラの暦を口にするウィノナ。辿々しく言い直す様子は、まだ彼女がパルミラの文化に馴染みきれていないことを如実にあらわしていた。
 慣れないことばかりで、不便をかけているだろうことはわかっている。なぜならクロード自身も、パルミラからフォドラに渡った際に数多の苦労を被ったからだ。母から度々フォドラの話を聞いていたとはいえ、それでも実際にこの目で見た外界はひどく不可解で怪訝だったし、その苦しみや葛藤をウィノナにも味わわせている自覚は、十二分に持っているつもりだ。
 それでも、ウィノナはついてきてくれた。他でもない自分に。クロードという人間を選んで、すべてを捨てて傍にいる覚悟を決めて、並び立ってくれている。
 途端、体の芯から愛おしさが溢れてくる。懸命に過ごす彼女を半ば放って宴に勤しんだおのれを恥じると共に、抑えきれない愛しさを込めて、細くて華奢な肩を抱いた。

「そ、その……すまん、ウィノナ。みっともないのは承知のうえだが、少しくらいは言い訳させてくれ。昨夜の宴には、色々と理由があってだな」
「そのあたりは理解しているつもりよ。隣の集落の首長との話し合いを兼ねていたのでしょう? そこを咎めるつもりなんてないわ」
「なら――」
「お門違いもいいところ。もしも私が苦言を呈するとしたら、宴の有無ではなく、あなたの酒癖の悪さだもの」

 ……何も言い返せなかった。パルミラ人の特性と言ってしまえばそれまでだが、しかし、豪快な彼らにも節制を心がけるものはごまんといる。否、人種なんて垣根で測っていいものではない。今回ばかりは、他でもないこの自分自身がだらしなかっただけなのだから。
 ――なんと言おうか。口をつぐんだまま渋い顔をしていると、ふるふるとウィノナの肩が震え始める。突然の変異に思わず声をあげそうになるのを抑えて顔を覗き込むと、予想外にも、ウィノナはひどくおかしそうに笑っていたのだった。

「……おばかね、冗談よ。暴れて誰かに迷惑をかけたわけでもないし、お酒を飲んだくらいでそんなに怒ったりしないわ。ちょっとからかっただけ」
「なっ――お、まえなあ……」
「ごめんなさいね。でも、これで少しはお灸をすえられたかしら?」
「……ああ。たっぷり絞られた気分だよ」

 クロードが肩をすくめると、ウィノナは相変わらずくすくすと笑って再びこちらに身を預けてくる。甘えるように頬をすり寄せる様子はひどく愛らしく見えて、ついつい額や頬、くちびる、顔中に口づけを落としていた。

「ふふ……このままじゃれつくのも一興だけれど、今日は一年に一度の誕生日だもの。せっかくだから、あなたの好物ばかりで作ったご馳走を振る舞ってさしあげたいのだけれど?」
「おう、それはもちろんいただくさ。ただ、どうせなら少しばかりつまみ食いをさせていただきたくてね」

 目覚めをもたらしてくれた乾酪の香りを思い出しながら、しかし、クロードの手はとまらない。ウィノナを優しく寝台に押し倒して、目の前の据え膳にたおやかに縋りついた。

「……誕生日おめでとう、クロード。今日という日を共に過ごせて、私、とっても幸せだわ」

 ささやくような睦言が、艶っぽく耳に滑り込んでくる。愛おしい彼女の愛おしい言葉は、今までの人生で誰にもらった祝福よりもこの心を熱くさせた。
 しどけなく投げ出されたウィノナの手をすくい、指を絡めて握り込む。細い指が握り返されたのを合図にして、とうとう蜜な時間へと没入をはじめてしまったのだった。

 
クロード、お誕生日おめでとう
2022/07/24