泰平の世にて

「なあ、ウィノナ……無理にとは言わないんだが、俺と一緒に旅に出ないか?」

 それは、ひどく唐突な提案だった。
 ぽりぽりと頬を掻きながら、目の前の男はウィノナにそっと問いかける。ためらうような、照れたような、とても複雑な面持ちはどうにも愛おしいそれで、ウィノナの頬も自然と綻んだ。
 パルミラにやってきて早数節――次期国王夫妻の私室は非常に豪勢な造りをしていて、露台に出れば王都一帯がすっかり見渡せる。遠く広がるパルミラの大地を一望できるこの景色が、ウィノナはひどく好きだった。
 寒暖差の激しい気候も、フォドラとはまったく違う造りをしたパルミラの民族衣装も、ここ最近になってようやっと慣れてきた。広大で乾いたパルミラの風景に、「カリード」という名前をした男はよく馴染む。
 この地ではカリードと呼んだほうがいいのか、というウィノナの問いに、彼は「公の場じゃなければどっちでもいいさ」と答えた。その優しさに甘んじて、二人きりのときは変わらず「クロード」と呼ばせてもらっている。
 というわけで、カリードもといクロードの出し抜けな問いに、ウィノナはひたすらの肯定を返した。

「私は特に問題ないけれど……いったい、どこへ何をしに行くの?」
「お前な……まあ、お前に対して滅多なことを言うつもりは毛頭ないが、承諾する前に一応俺の真意を聞いておけよ」
「あら、私があなたからの申し出を断ると思って?」
「…………」

 それっきり、クロードは黙ってしまった。顔を覆ったその様子は呆れているようでもあるが、なんとなく幸せが滲んでいるようでもある。
 ややあってからクロードはちいさく咳払いをし、再び口を開く。事のあらましを説明してくれるらしい。

「お前も知ってのとおり、パルミラの情勢は今、それとなく落ち着いている。俺が表に出る必要もないくらいには、な」
「そうね……先生やヒルダたちのおかげで、フォドラとの交友関係も良好なようだし」
「ああ。もちろん父上の手腕や俺たちの根まわしもあるが、民の混乱も最小限で済んでいるようだ。平和と言うには甘い気もするが、先立ってのような戦争の気配はない。有り体に言えばそれなりに余裕がある」

 そこで、だ。ぱちんと片目を閉じて、まるで決め台詞のような調子でクロードは続けた。

「お前はまだパルミラに不慣れだし、知らないことも多いだろ? もちろんこの俺だって、この国の端から端までを把握しているとは言いがたい。……というわけで、二人で見聞を広めるためにパルミラをまわらないか、と思ってな」
「……あなたが言い出すということは、きっと国王陛下にも了承済みなのね」
「ご明察。まあ、例に漏れず兄弟姉妹諸君は良い顔をしていないが……それはいつものことだし、あまり気にすることはないぜ」

 うん、うんと頷きながら、クロードは事もなげにそう言う。彼の生い立ちを思えば異母兄弟らの反感は非常に重たく痛いものであるだろうに、こんなふうに流してしまえるのはひとえに彼がたくましく、そして、それらがすべて乗り越えた過去であるからなのだろう。
 血反吐を吐くような思いで生きて、地べたを這いずりながらものし上がってきた彼のことを、ウィノナは心から愛しているし、そして、人間として尊敬してもいた。
 じっと見つめられて照れたのか、否か。クロードはまたもや咳払いを重ね、再度連れ添いの伺いを立ててくる。俺と一緒に来てくれるか、と。

「お前を一人にしておきたくないんだ。それに、こう見えて俺たちはまだまだ新婚だし、二人っきりで過ごす時間ってのも必要だろう?」

 なんとなく、含みがあるような彼の言葉。その裏にある真意を読み取るのは苦手でもなく、むしろ、ここしばらくでずいぶんうまくなったと思う。
 思えば出会った頃から、クロードはなぜかウィノナの前で格好のつかない男だった。それが習慣化しているのか、それともあえてわかりやすくしてくれているのか――真偽の程は不明だが、言い当てたときのクロードの反応がいやに可愛らしいので、もはや理由などウィノナにとっては瑣末な問題である。
 突きつめていけば、こんなふうに彼の隣に立ち、言葉を交わせるこの日常があるだけで、至上の喜びに他ならないのだから。

「ふふ……なんだか、新婚旅行みたいね?」

 フォドラにいた頃、小耳に挟んだことがある。貴族たちは新婚のみぎりに夫婦で旅行に出かけるのだと。もちろん彼らのなかで恋愛結婚を果たした者なんてほんのひと握りだろうが、それでも上流階級の人間たちにはそんな浮ついた文化があるのだと、当時世話になっていたあの男から教わった。
 幸か不幸かウィノナがそれに連れて行かれることはついぞなかったのだけれど、新婚の夫には蜂蜜酒を飲ませて精力増強をはかる、なんて無駄な知識だけ植えつけられた。紋章持ちの夫婦であるならなおさらだ、とも。
 その頃から蜂蜜に対してささやかな苦手意識があるのだけれど――まあ、そんなことはどうでもいい。いま大事なのは目の前にいるクロードと、彼と過ごすこれからのことだ。
 もっとも、当のクロードはウィノナの言葉を受けて、なんとも気まずそうな顔をしているのだけれど。

「お前なあ……そういうことは、わかってても言うべきじゃあないだろうが」
「あら……ふふ、ごめんなさいね。とっても嬉しかったものだから、つい」

 よく動くはずの舌を、めっきり静かにして。クロードは言葉の代わりにウィノナの体を抱きしめながら、その心中や、説明するはずであっただろう要項を淡々と吐く。

「期間は長くて一年といったところか。パルミラの情勢が安定していれば、もう少し自由でいられるかもしれない」
「まあ、素敵ね? 私は王都からほとんど出たことがないもの、今からとっても胸が躍っているわ」
「……ああ。俺だって、そうさ」

 まるで睦言のように耳元でささやかれて、思わずウィノナの肩が揺れた。「まって」の静止を飲み込むように口づけられ、今度はウィノナのほうが言葉を失ってしまう。
 眼前にある翠色は熱と期待に溺れているようで――それはきっと、このウィノナも同じであった。

「出立は……そうだな、三日後で。それまでに調子を整えておいてくれよ」

 迫り来る蜜月の気配と、今ここにあるクロードの熱、パルミラの温かい風。この場をとりまくすべてにあてられたような心地になって、ウィノナはじんわりと熱くなる体を感じていた。

 
新婚旅行シリーズを書きたかった
2022/04/02