胸のあかり

「眠れないのか?」

 そう声をかけられたのは、まんまるの満月を見上げながら夜風に吹かれていたときだった。寝入っている彼を起こさないように、と注意をはらって寝台を抜けたつもりだったけれど、どうやらうまくいかなかったらしい。
 天幕から出てきたばかりのクロードは、服の隙間を通る夜風に身震いしながらやってくる。彼は曖昧に微笑むしかできないウィノナの肩を抱き、言葉を続けた。

「言っておくが、別におまえに起こされたわけじゃあないぜ。俺も俺で、夜風が恋しくなっちまってな」
「あら……こんなにも冷えるのに、ずいぶんと物好きなことね」
「それはお互い様だろ?」

 冗談交じりにそう言うクロード。頬を緩ませるさまはウィノナの心をきゅうとあたたかくして、冷えた頬に柔らかな笑みをつれてきた。
 少しずつ冷たくなってきたウィノナの体とは裏腹に、天幕から出てきたばかりのクロードの体はひどくあたたかい。ぽか、ぽかと。愛おしいぬくもりに寄り添いながら、ウィノナはゆったりとおのれの胸のうちを吐き出した。どうして眠れなかったのか、どうして、ここに立っているのかを。

「なんとなく、昔を思い出していたわ。……ほら、ガルグ=マクはオグマ山脈に建っていたでしょう? だからここにいると、フォドラでみんなと過ごしていた頃のことがどうしてもよぎってしまって――」

 言いながら、ウィノナは満月とクロードの横顔をなぞるように視線を動かし……やがて、眼下の真っ暗闇のなかに広がる、点々とした明かりをぼうっと見つめ始めた。あそこにはきっと、自分たちと同じようにパルミラを旅している人々がいるのだろう。
 パルミラをまわる旅路の始まりとして選ばれたのは、フォドラにほど近い山脈地帯だった。手慣らしにしては少し険しいような気がして、どうしてここなの、と問うたとき、悪戯っ子のように笑いながら「どうせなら端から端まで行きたいだろ?」と言っていたクロードの顔が、未だ網膜に焼きついている。
 旅路の途中に、パルミラの民がもともと遊牧民族だったことや、草木の根づきにくい土地で生きていくため、かつてはこんなふうに天幕を持ち歩き、家畜とともにエサを求めてパルミラ全土を移ろっていたのだということを、少しずつクロードに教えてもらった。
 もしかすると、此度の新婚旅行も彼のなかに流れるパルミラの血がそうさせたのかもしれない――そんなふうに思ったのはつい昨日のことだ。
 今でこそ少しずつ定住傾向にあるが、庶民には未だ遊牧民として生きている者も少なくないようで、実は自分たちも今、とある集団に紛れさせてもらっている最中だったりする。最初は怪訝そうな顔をしていた族長も、最後にはクロードと酒を酌み交わすほど彼を信頼しきっていて、人の警戒心を解くことに関しての彼の手腕は、未だ衰えることを知らないようだ。
 歓迎の証として開いてもらった小さな宴で、食べすぎて地べたに寝転んでいたクロードを見たとき。なんとなく、ガルグ=マクにいた頃の祝賀会のことを思い出した。
 旅に出てから、既にウィノナのなかにはたくさんの思い出が刻まれている。始まってまだ一節も経っていない旅路ですらこれなのだから、ガルグ=マクで過ごした一年間ともなれば、募る思い出の密度はひときわだ。
 目を閉じればいくらでも蘇ってくる。あの、輝かしい毎日が。

「懐かしいか?」
「ええ、とても。……今になって思うの。あの頃の私、ものすごく幸せだったんだなって」
「ウィノナ――」
「ああでも、勘違いはしないでね。私はいっさい後悔なんてしていないし……今はあなたと一緒にいられるという、至上の喜びを感じているのよ」

 ……本当に、ただ懐かしくなっただけなのだ。
 キラキラと輝いていたあの日々。たった一年間のことだったけれど、あの頃はなんだかんだ毎日が楽しくて、「しあわせ」で。五年以上が経った今になってやっと、あの日々を宝物としてこの胸に抱きしめていたことに気づいてしまった。
 ディミトリがいて、アッシュもいて。そして、クロードと出会って。そのうえ、ローレンツやヒルダという級友までできて……あのときクロードの手をとらなければ、こんなふうにたくさんの思い出を抱えることなんかできなかっただろう。
 おのれの人生の転機にはいつもクロードがいる。その事実を改めて実感して、ひどくくすぐったい気持ちになった。
 突然くすくすと笑い始めたウィノナを横目に、クロードはいささか戸惑ったような声をあげる。

「なんだ、思い出し笑いか? 随分といやらしいことをするやつだな」
「ふふ、ごめんなさいね。あなたといられて幸せだなって、そんなことを考えていたら、つい」
「そいつは光栄なことだが――は、ッくしゅん!!」

 言いかけて、刹那。寒さに体を震わせたクロードの特大のくしゃみによって、眠りについていた白竜がぴくりと体を揺らすのが見えた。彼はちらりとこちらを一瞥して――そして、すぐにまた寝息を立て始める。
 白竜はこの新婚旅行において欠かせない存在だ。組み立て式の住居である天幕を運んでくれるのも彼だし、いざというときには狩りだって手伝ってくれる、縁の下の力持ちである。
 そんな彼の眠りを妨げてしまったことに、二人とも一抹の気まずさを芽生えさせてしまい――どちらともなく顔を見合わせてから、さあ、そろそろ天幕に戻るかと。あたたかい我が家に戻ろうと、静かに踵を返したのであった。

 
2022/04/13