月夜にひびく揺籃歌

 すう、すう。規則的な呼吸を繰り返す寝顔は、陽の下で見るよりいくらかあどけないように見える。
 月光に照らされた白い頬を指先でなぞり、クロードは小さく息を吐いた。よくもまあこれほどぐっすり眠れるものだと、連れ添って一年と少しの月日が経とうという妻の――ウィノナの寝顔を眺めながら、また今夜もうろうろと思案を巡らす夜を過ごすのだろうと思い至る。
 ウィノナは寝入っていた。クロードの子守唄を半分も聞くことなく、ほんの数分前にまるで幼い子どものごとくすやりと意識を手放したのだ。ふにふにと頬を弄んでも眉を動かす程度で終わる、その熟睡の具合にはいささか気を揉む心地であるが……まあ、ウィノナがこうしてぐっすり眠れるのはおそらく自分の前でだけなので、こんなときくらいしっかり寝かせてやるとしようか。そう思い直し、クロードは子守唄を最後まで歌い切ってから自らも眠る準備に入ろうと、その身を敷布の海に沈める。隣で寝入っている妻を腕のなかに閉じ込めてやり、あたたかな体温と香りを堪能しながら目を閉じた。
 ――子守唄。それは弟や妹にあまり縁のなかったクロードが、幼い頃に母から聞くばかりであった優しい歌であるのだけれど――どうしてそれを夜ごと歌っているのかといわれたら、発端は数節前のとある夜までさかのぼる。別に何か事件が起きたわけでもなく、きっかけなんてものは日常の延長線上に転がっていたものだった。
 あれはようやっと暑さが和らいできた時分の話だっただろうか。こうして寄り添いながら眠るのもなんとなく馴染んできた頃のこと、珍しくウィノナの寝つきが悪い日があったのだ。彼女とは学生の頃から何度か共に寝る日があって、思えばその頃から寝入りは良いほうであったと思うのだけれども――訝しむように眉をひそめ、何かあったのかと訊くと、夢見が悪くて寝つけないと彼女は小さくこぼしていた。暑さを理由にしていない悪夢であるがゆえ、いったい何の夢を見たんだ、とはなんとなく聞けなかったけれど。
 夢見や寝つきの悪さにはクロードにも覚えがあって、たとえば身内に毒を盛られた日は眠るどころの騒ぎじゃなかったし、はたまた三日三晩眠り続ける薬を飲まされたあとは、起きられなくなる“もしも”が怖くて睡眠そのものを拒絶した。他にも掻き集めれば悲惨な記憶は山ほどあって、特に星の見えない夜空の日など、夜というものには色々と嫌な思い出がつきまとう。もちろん大切な記憶だってたくさんあるのだけれども、人間の精神というのは自衛のため、つらい思い出をより強く記憶してしまうものなのだ。
 そうして遠い日の夜を手繰りながらふとよぎったのが、眠れない日に歌ってくれた母の子守唄だった。両親ともに放任主義で何かと放っておかれがちな幼少のみぎりであったが、それでもクロードが苦痛に喘いでいるときは手を握り、あたたかな旋律で心地よい眠りをもたらしてくれた母だった。彼女の歌はひどく優しくて、それは大きくなって久しい今も、あの日の母の歌声が耳から離れないほどである。
 フォドラに生まれた母がパルミラで子を産み、そしてパルミラの子守唄を歌うという事実は、おそらく他人からしたら当然だと吐き捨てられるようなことである。けれどクロードにとっては母が心から父のことを愛している証左であって、ゆえにこの歌は少しだけ、彼にすれば特別な意味を持っているのだ。
 両親の恋物語に思いを馳せるかたわら、眠れないでいるウィノナの背中をとんとんと叩き、馴染みある旋律を口にした。歌いながら懐かしい気持ちにひたり、いつしかあの頃のような、どこか辿々しくも舌足らずな母を真似るようになる頃にはウィノナも穏やかな寝息を立てていて、その安らかな寝顔に安堵の息を吐いたものだ。
 そんな夜から早数節。ウィノナはこの子守唄がいたく気に入ったのか、毎晩のように今日も歌えとねだってくるようになった。普段あまり欲求を口にしないぶん些細なおねだりですら非常にこの胸を揺らしてくれるわけで、つまりクロードに彼女の申し出を撥ねつける選択肢など存在していない。快諾するたび見せてくれる幼子のような笑みも、ぐっすり寝入っているがゆえの無防備な寝顔も、ぴったりとくっついてくる体も、そのどれもが彼女への愛おしさを募らせた。
 月のみが照らす薄暗い寝室で、ぼんやりと照らされた頬の輪郭を見ながら深いため息をついた夜は決して少なくない。夫婦という間柄ゆえもちろん時には情事にふけり、とても人には言えないような熱帯夜を過ごす日もあるのだけれど、事が終わればウィノナはやはり子供じみた寝姿を晒すのだ。さっきまで艶っぽく啼いていたくせに気づけばすやすやと眠っているその二面性、否、彼女が持ち得る危うい多面性は時としてクロードの感情を、奥底にある柔らかいものを蝕むようにして離さない。きっとそれはもしかしたら、学生の頃から続いていることなのかもしれなかった。
 夜が明けるたび、ウィノナは決まり文句のように「今日こそ最後まで聞かせてちょうだい」と言う。クロードは毎夜きちんと歌い切ってから眠りについているわけで、つまるところさっさと寝入ってしまうウィノナのほうに原因があるのだけれど、負けず嫌いのきらいがある彼女はどこか不服そうにそう言うのだ。ふす、と頬を膨らせながら言うすがたは大人びた容姿と打って変わって可愛らしく映ってしまう。
 もはや抗う術がないのだ。彼女のちょっとしたわがまま、文句、ともすると不快感を抱かせかねない言動にすら、優越感と庇護欲を感じてしまうクロードには。
「――わかってるよ。お前こそ、今夜はちゃあんと聞いてくれよな」
 挨拶の二の句で文句を聞かされるたび、クロードは今日も一日が始まったのだなと、かけがえのない妻との日常のはじまりを感じるのだった。

 
20201129