心根の記憶

転生パロ

 目が覚めたとき、眼前に広がっていたのは見たこともない部屋だった。
 床も天井もまっしろなこの部屋に、クロードとウィノナの二人はぼんやりと立っている。他にあるのは中央部に鎮座するちゃちな造りの机と、見るからに怪しげな十本の小瓶――そして、ひどく淡白な文章が綴られた手紙だった。

「『部屋の扉はこの薬をすべて飲み切るまで開きません。薬の効果は、一本飲むたびに恋人のことをひとつずつ忘れていくこと』――」

 最後まで読み切ることもなく、ウィノナは手紙を力強く握りつぶした。彼女の怪力によってくしゃくしゃになったそれはそのあたりに適当に投げ捨てられたが、内容を確認するためだろうか、クロードが拾って開く。あとに書いてあったのは、取るに足らないような簡単な説明文のみだ。

「ふうん……なるほどなあ。随分な部屋に閉じ込められちまったもんだぜ」
「冗談じゃないわ。こんな部屋、それこそ扉を壊して出てやれば――」
「やめとけって。俺たち二人を気取られずに拐って、あまつさえこんなところに閉じ込めちまった連中だぜ? 何か仕掛けてないとも限らないだろう」
「なら壁をぶち壊すまでよ」
「あのなあ――」

 クロードは呆れ返って顔を覆い、やけにご立腹な様子の恋人を見やる。普段はもっと冷静で、いっさい動じるようなこともないのに、なにゆえ今日ばかりはここまで気が立っているのだろうかと不思議でならなかった。
 まあ、こんな非常事態に見舞われては仕方のないことかもしれないが。

 しかし、いったい誰が自分たちをここへ連れてきたのだろうか。
 フォドラにいた頃ならまだしも、この現代社会において自分たちにここまでの危害を加えるような人間など、ほとんど存在しないはずだ。否、もちろん小さな恨みつらみは買っているだろうが、よもやここまで大掛かりなことをするほどでもあるまい。
 ……わからない。頭をひねり、首を傾げ、気が狂いそうなほどまっしろな天井を眺めてみても、答えにたどり着けるような気がしなかった。
 クロードが思案に耽っているあいだ、ウィノナはおそらく危険も承知で、部屋中を色々と見てまわっていた。壁をコンコンと叩いてみたり、扉の取っ手を押しては引いてと、いじくってみたり。
 あれやこれやと画策してみても、結局は何の成果も得られなかったようで、眉間にシワを寄せながらこちらへ戻ってきた。

「……ダメだわ。扉はビクともしないし、抜け道があるようでもない。こうなったら、今度こそ壁を壊すしかなさそうだけれど――」
「とはいえな、今のおまえはあの頃みたいな怪力じゃないだろ。……万一のことがあったら困る。下手に動きまわらないほうがいい」
「けれど……、――!?」

 刹那、室内に鳴り響いたのは謎の駆動音。電子音を伴ったそれは何もなかったはずの壁に小さな裂け目をつくり、その隙間から押し出されるようにして、簡素な造りの拡声器が現れた。
 軽い咳払いのあとに聞こえてきた声は、やはりというかなんというか、変声器を使って年齢はおろか、男女ですらも判別できなくなっている。

『おはようございます、クロードさんに、ウィノナさん。手荒い真似はしていないと思いますが、お目覚めはいかがですか?』
「最悪に決まっているでしょう。いったい何の目的でこんな――」
『ただの興味本位です。別にあなたたちに危害を加えたいわけではありませんよ』
「この状況が既に危害の一端なのだけれど?」
『あはは、それはそうですね。申し訳ございません』

 掴みどころのない語り口だ。あからさまに気が立っているウィノナの肩をそっと抱き、クロードはじっと拡声器を見やる。おそらく写真機が内蔵されているだろうことを見越して、キツめに睨みつけてやった。
 クロードの気迫を感じ取ったのか、謎の声の主はちいさく息を吐き、簡単にであるが概要を説明しはじめる。

『私は――私たちは、別にあなたがたの敵というわけではありません。否、むしろ支持者と言ってもいい。それも、ひときわ熱狂的な』
「そいつは有り難いが……支持者を自称するやつらがこんなことをしていいのかね?」
『倫理的には問題がありますね。でも、私たちはあなたがたの反応が見たかったのです。極限にも近い状態で、果たしてどんな判断を下すのか、とかね』
「その結果がこの状況ってことか? 随分と悪趣味だね」
『それはこちらも自覚していることですので』

 淡々とした語り口のまま、謎の声は説明を続ける。

『はじめに言っておきますが、その薬に毒などは入っておりません。手紙のとおり少しずつ記憶が消えるだけで、それ以外、お体に支障をきたすようなことはいっさいございませんのでご安心を』
「……そんな言葉、私たちが手放しで信じるとでも?」
『信じていただくしかありません。再三言いますが、私たちは決してあなたたちを傷つけたいわけではないのです。……まあ、扉や壁を壊したりするとその限りではありませんので、その点はご留意くださいね』

 変わらぬ声色のままいきなり飛び出してきた物騒な文句に、クロードとウィノナは息を呑む。後ろ手に隠されていた狂気や圧力をちらりと見せられた途端、拡声器から重苦しい威圧感があふれてきて、とうとう言葉をなくしてしまった。
 どうしてそこまで――喉の奥につっかえた言葉を察したのか、声の主はにんまりとした色を乗せながら、けれども無機質なふうに言葉を続ける。

『何事にも緊張感は欠かせませんし、そのほうが盛り上がるでしょう』

 ――その言葉を聞いた途端、急に脳裏をよぎったことがある。
 そういえばこの時代の創作物には、こんなふうに何かをしないと出られない部屋、というものが局所的に流行っているのだと――

 
「――あなたが全部飲んで」

 いくばくかの逡巡の後、先に言葉を発したのはウィノナのほうだった。
 その声は半ば放心していたクロードの意識を思い切り掴んで引き戻し、やがてはゆっくりと、彼女の言葉の意味を咀嚼させる。
 あなたが全部飲んで――その言葉の真意をうまく読み取ることができず、否、そうでなくとも聞いておかねばならぬと思い、クロードは俯いたままのウィノナに目を向け、訊ねる。

「理由を……訊いても、いいか?」
「簡単なことよ」

 拡声器の主に負けず劣らず、淡々としたふうなままに言う。先ほどまでの混乱した様子はどこへやら、かくあるべき冷静さを取り戻したウィノナは、しかし、クロードの背中に嫌な汗を伝わせる。

「別に、あの悪趣味な人の言うことをすべて信じたわけではないし、軽率な判断であることも自覚してるわ。ただ――」

 鋭くも透き通った氷の瞳が、不意にクロードへと向けられた。ゆらゆらと揺れるようであるそれは、彼女の内面にある思惑や考えをまっすぐ投影しているようで、思わず息を呑んでしまう。

「私は、あなたのことを忘れるだなんて耐えられない。これを飲めば忘れたことすら忘れてしまうのでしょうけれど……それでも私は、あなたのいない毎日なんてもう考えたくもないの」

 きっと、この胸に一生消せない空虚を抱えて生きていく羽目になるわ――
 すんでのところで涙をこらえたふうに、ウィノナはそう言ってのけた。
 彼女の脳裏にあるのはきっと、有り体に言えば自分たちの前世にあたる――数百年、数千年も昔の“フォドラ”と呼ばれた大陸での話だ。
 ひどく稀有なことであるが、自分たちはいわゆる前世の記憶というものを持ち得たまま今を生きている。始めはぼんやりとしか覚えていなかったけれど、現世で再びあいまみえ、手を取り合ううち、あの頃の空気の味ですら鮮明に思い出せるようになった。
 しかし、だからこそ重くのしかかっていることもある。クロードとウィノナが過ごした、痛くも苦しい別離の日々だ。
 詳しく話を聞くことこそしなかったけれど、彼女はきっと想像を遥かに超えた苦節の日々を送ってきたのだろうと思う。未だに悪夢を見ては目を覚まし、たった一人で涙を流して、夜を必死に越えようとするくらいには。
 同じ寝台で寝ている以上、魘された彼女が目を覚ますところなんて何回だって遭遇した。けれど、一人で泣かせたくないとのたまうくせに声をかけることを憚られるほど、ウィノナが越えようとする夜はとても長くて、重たくて、触れてはいけないと思わせたのだ。
 だから何も言えなかった。彼女の負った傷を思うと、痛みすらも忘れてしまえと言うことなんてできなかった。ウィノナにとってはおそらくその痛みすらかけがえのない軌跡で、忘れてしまいたいと思えはすれど、決して忘れてはならないような、ある種の戒めでもあるのだろうから。

「――わかった」

 言いながら、クロードは目の前にある小瓶のひとつを手に取る。中身は水と見紛うほど透きとおっていて、小瓶越しに瞳を揺らすウィノナがはっきりと視認できた。

「おまえの考えはこうだろう? 『私はあなたを忘れて生きていくなんて出来ないけれど、あなたは私がいなくても生きていける。むしろ、そのほうが幸せになれる』って」
「それは――」
「言わなくてもわかってるさ。……何年一緒にいると思ってんだ、俺たちゃ一度は生涯を共にした仲なんだからな」
「…………」
「そして……それほどの時を過ごしたくせに、おまえは俺のことをちっともわかっていないらしい」

 クロードの言葉に、ウィノナがはっと顔を上げる。訝しみつつも驚愕しているその表情は、クロードのなかにある想いをひときわに強くした。

「もし仮に、俺がこの薬を飲んでおまえのことを忘れたとしても――俺はきっと、もう一度おまえのことを愛しちまうと思うぜ」

 言いきって、クロードはウィノナに口を挟む隙も与えないくらいの早さで、小瓶の中身を呷っていく。
 飲み終わったそれを鬱憤を晴らすように投げ捨てるたび、呼吸と嚥下音ばかりの室内に、澄んだ破砕音が鳴り響きつづけた。

 そうして、とうとうそれが十回目を過ぎた頃。クロードのどこか虚ろな目には、呆然と立ちつくす、見たこともない女が映っていた。
 凛とした雰囲気は自立した強い女性のようであるが、なんとなく、本当になんとなく、それだけではないような気がした。理由はわからない、けれど、決して強いだけではないのだという確信が、何故かこの胸に巣食っている。
 どことなく青ざめた表情はこのうえなく庇護欲をそそり、思わずこの手が伸びてしまいそうになってしまうが――既のところでそれを抑え、気取られぬよう息を吐いた。その間、二人はいっさい声を発することもなく、ただ、歪な沈黙ばかりがその場を支配している。
 重く息苦しい空気に耐えきれなくなったあたりで、ようやっと扉の解錠の音が聞こえた。無機質なそれは沈みきった空気をすっかり払ってくれたようで、クロードはまるで誘われるように出口のほうへ歩き出し、呆気ないほど軽い扉を開いた。

「――」

 そのまま、出ていこうとしたとき。クロードの意志とは裏腹なところで、この体は自然と彼女の――■■のほうを振り返った。彼女は藍玉の双眸をうんと見開いて、薄くも艷やかなくちびるから、クロードの名前をつぶやく。
 刹那、再び勝手に体が動いた。クロードの手は流れるように彼女の手を引き、まるで共にゆこうとするように、■■を隣に立たせる。
 置いていってはいけない気がした。このまま離れてしまっては取り返しがつかなくなる、そんな予感が止まらなくて、胸の奥でけたたましい警鐘が鳴り響いているのだ。

「帰ろうぜ。一緒に」

 言うと、■■はうつむいて肩をふるわせながら、ちいさく頷いたのだった。

 
ツイッターで見かけたネタをお借りしました
2022/06/25