骨の髄まで君が好き

 アッシュがガスパール領の家督相続を認められて、早一年が経とうとしていた。
 相変わらず日々は目まぐるしいものであるが、それでも二人で支えあって、懸命に毎日を生きている。戦禍によって傷だらけになった領内も少しずつ回復の兆しを見せ始めていて、だんだんと笑顔を取り戻し始めた領民に安堵のため息をつく程度には、アッシュの領主としての振る舞いも板についてきたと思う。
 今日はそんな彼への労いも兼ねて少しだけ贅沢な焼き菓子を食べようと、夕食後にのんびり過ごす時間を取っていたの、だが。
「ねえ、ウィノナ。僕、君に聞きたいことがあるんだけど」
 出し抜けに切り出したアッシュはひどく真剣な面持ちで、憩いの空気を引き裂くように言葉を吐いた。
 それはきっと、談笑で茶化すことのできない真面目な話であるのだろう。普段あれほど穏やかなアッシュにこんな顔をさせるなんて、それだけでひどく重たい話題であることが窺えた。
 傾けていた杯を机のうえに置いたウィノナは、努めて冷静に返事をする。なあに、と答えたその声はいささか震えているようだったが。
「僕って、領主としてはまだまだ未熟で……僕なりに最善を尽くそうと頑張ってはいるけど、ロナート様にはまったく及ばないというか」
「あら、私はそうは思わないわよ。あなたは寝る間も惜しんで領民のために努力しているじゃない、それはとても偉いことで――」
「そう! それ、それなんだ……って、あわわ」
 やや食い気味に言葉を挟んできたアッシュは勢いあまって机に膝を打ちつけてしまい、派手な音を立てて食器たちを揺らしてしまう羽目となった。
 幸いなことにどれも傷はついていないし、焼き菓子たちもおしなべて平らげたあとだったので被害はなんにも出ていない。ただひとつ支障があるとするなら、やらかしたアッシュが両手で顔を被っているということだろうか。
 あからさまに落ち込んだアッシュは、すごすごと椅子の上に腰を下ろし……また、深く重たいため息をついた。
「そんなに気を落とさないの。近頃はひときわ忙しくしているし、慣れない領主様なんてことをして、平気でいるほうがおかしいもの」
「でも――」
「でももへちまもないわ。あなたはよく頑張ってるんだから、ちゃんと胸を張って」
 アッシュの頬に触れるウィノナはとても穏やかに笑っていて、彼のことが愛おしくて、可愛くってたまらないと言外に主張しているようだった。もちろんそれは事実であるし、彼のやることなら何だって許して、甘く受け入れてしまうだろうという確信は昔からある。
 大好きな夫のことなのだ。こんな些事ごときで、何を目くじら立てることがある。
「……君はどうして怒らないの? 僕がどんなに情けなくても、ヘマをやらかしても、君はいつだって僕のことを許してくれる。それが……その理由が気になっちゃって、ずっと」
「あら……そんなことを気にしていたの? 私はてっきり、何か不満があるのかと」
「不満なんてあるわけないよ! ……いや、むしろ君が優しすぎることが不満というか、下手ばかりやってるといつか愛想を尽かされそうで――」
「まさか。そんなこと、あるわけないでしょう」
 少し視線を下げながら言うアッシュ。子犬さながらの様子に胸を射抜かれるような感覚に陥ったウィノナは、きっと机を挟んでいなければ今すぐにでも彼を抱きしめていただろうな、という新たな確信を芽生えさせる。
 どうしてすべてを許すのか。なにゆえ、彼に甘いのか。そんなものはとうの昔に答えが出ていることであって、つまり彼が彼である以上、ウィノナの大好きなアッシュ=デュランである以上は決して変わりようのないことであるのだけれど――
「教えてあげるわ。どうして私があなたのすべてを許してしまうのか、その理由」
「え――」
「惚れた弱みってやつよ」
 私、あなたが何をやっても可愛くて仕方がないの。だってね、私はずーっと、あなたのことが大好きで大好きでたまらないんだもの。
 そう伝えた刹那、アッシュは色素の薄い頬を真っ赤にそめて笑ったのだった。
 

20210306