軌跡を辿る

 言っておきたいことがあった。最後の最後になるけれど、胸に燻っているこの気持ちだけはちゃんと伝えておきたかった。
 やらずできずの後悔は、もういっさいやめにしたかったのだ。
 たとえ押しつけがましい結果になったとしても、ある種のケジメとして、私はこの言葉を声にしておかなければならなかった。

(ちゃんと……そう、言わなくちゃ。このまま何も言わずに去るだなんて、そんなのはもう終わりにしたいから)

 柄にもなく緊張している、のかもしれない。
 こんな経験は初めてなのだ。誰かを深く愛することも、その気持ちを言葉として伝えることも――
 もっとも彼は私にとって“初恋”の人なのだから、そうであるのは当然なのだけれど。

 暴虐の王子でしかなかったディミトリは、ついにあのエーデルガルトを打ち倒し、血の雨が降ることのない平和な世を取り戻した。ファーガスを侵略せんとしたアドラステア帝国を下して、このフォドラを統一したのだ。
 かつての獅子王ルーグがそうであったように、否、きっと彼以上の武勇でもって、戦火にあえぐ人々をその手で救いあげたのである。
 救国の王ディミトリ――民衆は彼のことをそう称え、ひどく敬愛しているようだった。
 私は彼の姉として、同窓の学友として、はたまた一人の戦士として、彼の目的に貢献してきたつもりだ。文字どおり私の持ちうるものすべてを……命をかけて戦った。時には彼の盾となり剣となり、仕えるべき主君のため、たった一人の弟のために全力をかけて生き延びた。
 けれど戦争が収束した今、私は晴れて自由の身となってしまった。戦いに身をやつす必要はない。明日も知れないような日々を過ごすことはもうないのだと、これからは自分のための日々を送ってくれと他でもないディミトリ本人に告げられて、私はもう、彼に付き従う役目をなくしてしまったようだ。

 お前が――姉上が傍にいてくれたら、それ以上に心強いことはないのだがな。

 隻眉をハの字に曲げて笑いながら、ディミトリは確かにそう言った。
 もしかすると、彼にはわかっていたのかもしれない。私の奥底にある本心が。私の世界の中心、柱となっている人がいったい誰なのかなんて、すべてお見通しだったのだろう。
 弟として、学友として私の想いを優先してくれたあの優しすぎる弟に、私はこれ以上ないほど甘えてしまった。
 あのまま、私が自分の気持ちに嘘をついてまで彼に仕える道を選んだら、それこそディミトリを苦しめることになるだろうから――なんて、そんなの言い訳もいいところだ。

「……そろそろ、来てくれるかしら」

 私は今、ディミトリに背中を押されるがまま女神の塔に立っている。少し、用事があるからだ。
 女神の塔から見下ろすフォドラはあっけないほどに小さく見えた。目の前に広がる景色はひどく雄大で、まるで一枚の絵画のよう。
 ここまでひらけていると、ファーガスやレスター、アドラステアのみならず、パルミラやブリギットでさえも端の端まですっかり見渡せてしまいそうだ。
 私は小さく深呼吸をして、この景色を網膜に焼きつけようと目を細めた。

 
 程なくして。淡々と、しかし妙に滞ったふうの足音が聞こえてくる。私は緊張を払えないまま背筋を伸ばし、その足音の主が上がってくるのをひたすらに待った。
 誰がやってきたのかなどは顔を見ずともわかる。なぜなら、他でもないこの私自身がその人を呼び出したのだから。

「――ウィノナ! ごめんね、遅くなっちゃって」

 後方からかけられた、ひどく優しくて愛おしいそれ。途端、心臓は早鐘のように激しくこの胸を叩き、私の背中と手のひらにじわりとした汗を滲ませる。
 階段を登りきったその人――アッシュは私の隣に立ち、同じようにフォドラを見下ろした。わあ、と感嘆の声をあげる様子はどこか無邪気なようで、私の強張った体も一瞬だけ和らぎ、小さく息を吐くことができた。

「ここの景色、すごいんだね。風もすっごく気持ちがいいし……あ、あのへんにカスパールがあるのかな」
「あ――ええ。多分、そうだと思うわ」
「ガスパール城ほど大きな建物なら、もしかしたら見えるかもしれないなあと思ったけど……あはは、さすがに難しいみたいだね」

 ぐっと手を伸ばしながら、アッシュは北西の方角を指差す。風に乗って花の香りでも漂ってきそうだ、なんて、私はよく知りもしない故郷のことを考えた。
 ぎこちない私の受け答えに何か思うことがあったのか――アッシュはやがて少しばかり考え込み、そして、意を決したように口を開く。

「ねえウィノナ、このあいだ僕が言ったこと覚えてる? 大切なことを思い出したんだ、って」
「それは……ええ。もちろん覚えているけれど」
「そっか、よかった。……せっかくだし、この機会にその話の続きをしようと思うんだ」

 遠く離れたガスパールの方角を眺めながら、アッシュはつぶやくように話す。

「さんざ引っ張ったあとだし、もう単刀直入に言うね。……僕、君のことが大好きなんだ。ずっとずっと、昔から。僕はきっと、出会ったときから君のことが好きだったんだと思う」
「えっ――」

 突然の言葉に、私は面食らってしまってまともな返事もできなかった。
 なぜなら、いま彼が言った言葉はむしろ私が伝えようと思っていたことで、そのためにわざわざ彼をこんなところまで呼びつけたのだから。
 狼狽して口をはくはくさせる私をよそに、アッシュはどんどん言葉を続ける。

「先生や陛下とともに戦うなかで、僕たちは今までより何倍も濃密に、苦楽を共にしてこれたと思うんだ。生死をかけた戦いをこえて、なんとか生き延びて――その過程で、僕は何度も君のことを考えたよ。……この国の勝利を勝ち取りたい。そう思うのと同じくらい、君と一緒に生きて帰りたいって」

 言いきって、アッシュはゆっくりと私のほうに向き直る。その顔はすっかり緊張したような面持ちをしていて、きっと私も彼と同じような顔をしているのだろうと思われた。
 アッシュは、ごそごそと懐を漁る。二の句をつぐ間もなく現れたのは、ひどく大切そうに仕舞いこまれていた、上等な造りの小箱だった。

「少し前にアンナさんから買いつけたんだ。開けてみて」
「え、ええ……。――、ぁ」

 手のひらに軽く収まるほどの小箱。私は緊張を、高ぶりを最高潮にまで至らせながら、おぼつかない手つきでそれを開く。力加減を誤ってそれを壊してしまわないよう、食事のときより気を遣って。
 小箱のなかに入っていたのは、案の定とも言うべきか、可愛らしい装飾の施された指輪だった。銀色の輪の頂点に鎮座するのは澄んだ色をしたくさび石で――アッシュの瞳の色に、本当によく似ている。

「……僕ね、事後処理が終わったらガスパールに帰るんだ。此度の戦果のおかげで、ガスパール城や領地を継ぐお許しをいただけたんだよ」

 小箱を乗せたまま震えている私の手に、アッシュはおのれのそれを重ねる。手袋越しでも伝わる“男の子”の手は、かつて繋いだそれよりも何倍も分厚くて、たくましかった。

「僕は、あの地を治めるなら君と一緒がいい。君との軌跡がたくさんあるあの土地を、二人で守っていきたいんだ」

 私たちの間に横たわるのは、朝焼けと共に表れたひどく静謐な空気。ひんやりとしていて、静かで、まるでこの世に二人きりであるかのような錯覚すらもたらすそれ。
 夢のなかとでも見紛うような、ある種の幻想すら抱きそうな空気は――私の心を強く掴み、揺さぶって、めちゃくちゃに引きちぎろうとする。

「ば――ば、か、」

 そんななかでなんとか絞り出せた言葉は、どうにも子供じみている、まるで負け惜しみのような一言だった。
 私の返答にアッシュはすっかり驚いて、さっきまでの精悍な面持ちはどこへやら、ほんの少し間抜けなふうに口をあんぐりと開けている。

「あ、アッシュの、ばか。わ、私がいったい、何のためにあなたを、呼び出したと思ってるの」
「えっ……」
「わ、私のほうが先に、伝えようと、思っていたのに……!」

 言いながら、私は涙をこらえきれずほろほろと頬を濡らしてしまった。
 情けないことこのうえない。アッシュと話すときはまるで幼子のようにすぐ涙があふれてしまって、自分の情緒というものをまったく制御できていない。
 みっともなく泣く私をアッシュはおろおろと見守っていて、やがてその優しい手が肩に触れた頃、私はようやっと言葉を発することができた。

「――すき。だ、いすきよ。私だって、あなたのことがずっとずっと好きだった。一緒にいたいと思っているのは、私だって、同じなんだから……!」

 たまらず胸に飛び込んだ私を、いささか呆けたようなアッシュが優しく受けとめてくれる。
 程なくして実感が芽生えたのだろう、その両手は私の背中にまわされ、力いっぱいに抱きしめられた。
 ひどくあたたかくて懐かしい、大好きなアッシュの腕のなか。心の奥の凍てついた氷を溶かすがごとく、陽だまりの化身のような彼は私のすべてを包み込み、すっかり迎え入れてくれた。

「ありがとう、ウィノナ。……僕たち、今度こそずっと一緒にいようね。おじいちゃんとおばあちゃんになっても、ずっとずっと、手を繋いで歩いていこう」

 フォドラのすべてを渡る暁風が、私たちの頬をくすぐる。
 永遠と呼ぶにも惜しいくらいの至福のときを、私たちは身を寄せ合い、ただひたすらに味わっていた。

 
2022/09/27