何かが崩れる音がした

 あの日以来、アッシュには一度も会っていない。理由はちっともわからないが――否、もしかするとわからないふりをしているだけかもしれない――あれからいっさいの音沙汰がなくなってしまったのだ。
 とはいえ、それもただ「アッシュが我が家に来なくなった」というだけで、私から何かを働きかけたわけではなかった。私にできるのは精々目印の小石や枝を置くくらいで、それ以外、たとえばこの足でアッシュの家まで遊びに行く、なんてことは結局できないままでいる。
 私の毎日はあれから何の変化もなく、平坦で退屈な日々に逆戻りしてしまった。
 この数週間、おのれのことをひどく呪った。何もできない無力な自分を。そして、私をこんな穴蔵に放り込んでいる母のことを、何よりも誰よりも恨んだ。
 じわじわと這い上がる真っ黒な怪物。憎悪という名のそれがはっきりと姿を表し始めたのはきっとこの頃なのだろうと――未来の私は、ぼんやりとであるが記憶している。

「ねえ、おかあさん。お外におさんぽにいってもいい?」

 一度外に出たという経験がそうさせたのか否か、驚くほど簡単に、外出を打診することができた。
 母はひどく面食らったような顔をしながらも、ため息まじりに了承する。どこか諦めたようでも、激しく嘆くようでもある表情は、何故だか私のまぶたに色濃くこびりつき、なかなか消えてくれなかった。

「あまり遠くへは行かないように。市場とかね。それから、遅くなるのもダメよ。日が高いうちに帰ってくること」

 母はその場にしゃがみ込んで、私に上着を着せながら言う。目があうことはなかったけれど、それでも母が“母”であるということを再認識させられた。

「わかったわ。……ありがとう、おかあさん」

 私がそう言うと、母は初めて私の目を見て――そして、苦笑いにも似た顔をした。
 このとき、私は初めて気づく。彼女が私の脱走に気づいていたこと。私の変化を察していながらも、ずっと見てみぬふりをしてくれていたこと。市場で悪さしたことまでは知れていないかもしれないが、それでもあの方面まで出向いたことくらいは、おそらく知っていたのだろう。
 いま思えば、たしかに気づかないほうが難しいことかもしれない。母は頭の良い人だった。不自然に窓枠や扉の前に置かれた小石たちや、なんとなく機嫌のいい私。真相自体はわからずとも、いきなり様子を変えた私を見れば、何かしらの変化や刺激があったことなんてすぐに察せられることだ。
 ――急に、おのれが恥ずかしくなった。気づかれていないと余裕ぶっていたくせして、実際は手のひらのうえで転がされていた、愚かで浅はかな自分が。

 
  ◇◇◇
 

 宛てどもなく、ガスパールの街を歩いた。
 生まれたときから住んでいるくせに、まったく見慣れない外の景色。民衆の雑踏も、食事どころの良い香りも、楽しそうな子どもたちも、私にいっさいの感慨を与えることはなかった。以前吸ったときはとてもおいしかったはずなのに、今日ばかりは無味無臭の、ただそこに在るだけの酸素が私の体に取り込まれる。吸って、吐いて、また吸って。それは家中にいた頃に繰り返していた行為とまったく同じであり、とくに何か、特別な感覚を得ることはなかった。
 母とよく話していた気がする近所のおばさんが、一人で練り歩く私を見て目を見開いていた気がするが――今日は別にやましいことがあるわけでもないので、とくに弁明する必要もないだろう。小さく会釈をしてすれ違えば、彼女も同じく会釈を返し、首を傾げているのだけが見えた。

 ため息混じりに歩いていると、突然周りがざわつきはじめた。歓声にも似たそれは冷めきった街を一気に熱狂させるようで、いったい何だ、と群衆の向かう先に目を向けると、どうやらガスパール領の城主がこの街に降りてきているようだった。
 城主といえば――噂くらいなら聞いたことはあるが、何分自由に外を彷徨くこともできなかったのだ。特に馴染みがあるわけでも、恩義を感じているわけでもない。

「――ロナート様だ!」

 人々の様子を見るに、どうやらその“ロナート様”はみんなに慕われているらしかった。私は彼についてなんの知識も持っていなかったので、民衆の話に耳を傾けながら、情報収集をすることにする。
 ロナート=ジルダ=ガスパール――人波の隙間から見た彼はいささか厳しい面持ちであったが、それでもとても人情に厚く、真っ当な人なのだと思う。ここにいる誰もが彼を褒め、敬い、笑顔になっていたからだ。
 それほど素晴らしい人がこの領地を治めてくれているのならば、せめてもっと下町に目を向けてくれと、アッシュたちが健やかに過ごせる毎日を保証してほしいと思ってしまう。今の私の脳内にあるのは、音沙汰のなくなってしまった彼のことばかりなので。

「アッシュ……元気にしているかしら。あれだけのたべものを持って帰ったのだし、まさかうえているなんてことはないでしょうけれど――」

 言いかけて、刹那。人混みの隙間、ロナート卿が体を傾けた途端に私の目の前に飛び込んできたのは、以前よりもずいぶん立派な身なりをして、恥ずかしそうに隣を歩くアッシュのすがただった。一瞬捉えただけだったけれど、この私が彼のことを見間違うはずもない。

「ロナート様、その子は?」
「アッシュだ。訳あって数人養子に迎えることになったのだが――とても利発で、心優しい子だよ」

 優しげにアッシュの頭を撫でるロナート卿と、照れ臭そうに笑うアッシュのすがたが私の脳を殴る。幸せそうなアッシュの顔は私のずっと見たかぅたそれであるが、どうして私はこんなにも、嫌な汗をかいているのだろう。
 彼らの口ぶりから、おそらく弟妹たちも一緒に迎えられていることがわかる。……よかった。あの子たちもきっと今頃は明日を保証されているわけで、あたたかくて柔らかな毎日を過ごすことができるようになっているのだ。
 お腹が空いて泣くこともない。不安で眠れないことも、寒さに心まで冷えきることもなく、健やかに過ごすことができる。それらはとても喜ばしいことなのに――私は雷にでも撃たれたような衝撃を受けて、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 やがてロナート卿が去り、人々もまばらになった頃。ようやっと私の意識は覚醒して、数分ぶりに大気を体に取り込んだような心地となった。急な呼吸と自覚に私の体は再び汗を吹き出して、激しい動機と眩暈に襲われる。
 情けなくも、手が震えていた。哀しいわけではない。怖いわけでも。そう自分に言い聞かせながら、あの日よりも弱い力で、にわかに手のひらを握りしめる。
 アッシュは、ロナート卿の養子になったらしい。……新しい家族ができたのだ。きっと以前より何倍も満ち足りた、安寧の日々を送っているのだろうと思う。
 そのことが喜ばしい反面、もしかすると私は忘れられたのだろうかと、私のような役立たずは捨て置かれてしまったのかと、そんな浅はかで自分本位な考えばかりが浮かんでしまう。アッシュがそんなことをするわけはないのに。アッシュのように優しくて情に厚い男の子が、いとも簡単に、私のことを放るはずが。
 そう信じていたいのに、私は急に自分たちの名前のつかない関係がひどく恐ろしくなって、ついには立っていられなくなってしまった。よろよろと往来の端に寄り、へたり込んで深呼吸をする。
 アッシュは今、幸せに毎日を過ごしている。……私のいないところで。私なんて入る隙間もないところで、毎日笑って、今までできなかったことをして、あたたかくも立派な家で、心躍る日々を過ごしているのだ。
 私なんかに、口を挟むような義理はない。アッシュが幸せになれるなら、悪いことなんてせずに真っ当に生きていけるならそれが一番だと思うし、それをわざわざ壊すような、馬鹿な真似だってするつもりはない。
 ただ――ほんの少しだけ淋しかった。自分がもう、彼の世界にいないのだろうという事実を、ひどく耐えがたく感じている。ただ一度盗みを手伝ってくれただけの子どもなんかより、住む家を、あたたかい家族を提供してくれる大人のほうが素晴らしくて、愛されるに決まっている。わかっているのに。理解しているはずなのに、それでも私の体は依然として震えたままだし、喉はカラカラに渇いて、息をすることもままならない。
 こんなにも脆くて弱い自分を自覚しながら、私は街角の隙間でただ一人、震えているばかりだった。

「……おめでとう、アッシュ。どうか、幸せに生きてほしいわ」

 なんとか絞り出した独り言を最後に、私はとうとう、アッシュに関わるすべてのことを忘れようと努めてしまった。

 
2022/08/11