頭の奥に在る景色

 あれから七年の月日が経ち、私の人生には様々な変化が訪れた。恨めしい存在であった母が亡くなり、彼女の既知である紋章学者の養子に入ったのは三年ほど前のことだ。
 今に至るまでには様々な悶着があったが、目的を果たすためならそんな苦労は瑣末なことだとずっとおのれに言い聞かせてきた。夢のためなら。目的のためなら。いつからか口癖になったそれらは、今も私の胸の奥で大きく根を張っている。
 ……そうでもしないと、私は日常に潜む悪魔にすべてを食われてしまいそうだったから。
 私の目的――それは、このガルグ=マク大修道院に併設された士官学校に入学すること。最終的な到達点はその先にあったが、しかし、そこに至るための大きな一歩を踏み出したことで、私がある種の区切りを得たことは確かだった。

 ファーガス神聖王国の生まれである私は、当然のごとく青獅子の学級の所属となった。この学級で過ごす毎日はひどく刺激的であり甘美。文字通り夢のようである。
 幼少期から外界との接触を限りなく排除されて育った私にとって、同年代の人間が多くいる士官学校は新鮮そのもの。オフェリー家の養子に入ってからは以前に比べて外との交流も増えたけれど、しかし、あの家でも依然として窮屈で束縛された日々を送っていたので、養父のもとを離れた今は何もかもが自由で心も躍る。
 平民生まれの私にとって貴族の多いこの学級はなんとなく息が詰まるような側面もあったけれど――そもそもこのガルグ=マク自体が高貴な身分の人間だらけなのだが――そんな私にも好意的かつ気さくに接してくれたのが、同じく青獅子の学級に所属する平民生まれの男の子、アッシュ=デュランだった。

 ――えっと……君は確か、青獅子の学級のウィノナ、ですよね? そんなところで、どうかしたんですか?

 ひとつ年下の彼はとても真面目で心優しく、無愛想な私にもにこやかに応じてくれる。はじめは私が貴族ということで萎縮しているようだったものの、私の生まれが平民であること、同じガスパール領の出身であることを打ち明けてからは、以前よりも少しだけ心を許してくれた、気がした。

 ――すみません。読みたい本があったのですが、思ったより本が詰まっているみたいで、うまく抜けなくて。

 アッシュと過ごす学級生活はとても穏やかで、居心地が良くて。少なからず私のなかに巣食っていたらしい緊張や張りつめた思いを、彼の物腰によって解されているような気分になる。

 ――そうだったんですか……よし、ここは僕に任せてください! 本の題名、教えてもらってもいいですか?

 彼という存在に心地よさを感じる反面。私はなぜか、記憶の奥底に仕舞い込んだ何かが音を立てているような光景が頭に浮かんでいた。不快ではないがひどく奇妙な胸騒ぎは、やがてキツく閉まった蓋を壊して、溢れてしまいそうだったのだ。
 

  ◇◇◇
 

 カラン、といやに大きな落下音が鳴り響いたのは、人もそこそこの訓練場だった。
 珍しく自主訓練に励んでいた私は、運悪く鉄の剣を取り落としてしまった。それなりに人がいるおかげであまり目立たなかったことだけが救いだが、足元に転がっているそれはからんからんと揺れていて、その動きが収まった頃、やっと息をつくことが出来た。なんとなく気を張っていたのかもしれない。
 訓練しているところなんて死んでも見られたくないのに、こんなところを誰かに見つかったら私はどうすればいいのか――噂好きで口の軽い人間に知れたらそれこそ一巻の終わりだ。
 日頃は人のいない時間帯を狙っていたのだけれど、なぜだか今日は、なんとなくの気分で昼間を選んでしまったのである。後悔先に立たずとはよく言ったものだと、おのれの浅はかさに思わずため息をこぼした。
 私は誰にも気づかれていないことを祈り、ゆるゆると身を屈め左手を伸ばしたのだが――

「あれ、ウィノナ? どうかした……?」

 幸か不幸か、件のアッシュに声をかけられてしまったのである。ぱたぱたと駆け寄ってくる足音は、無情にもこちらへ近づいている。
 彼は意外と敏いところがある。男女も入り混じったこの訓練場は天井が大きく抜けているおかげで音も籠もりにくいのに、どうしてバレてしまったのか――弓矢を片手に携えているのだから、彼だって訓練に勤しんでいただろうに。
 何もない、と言いかけて。私はつい、痛みに口をつぐんでしまった。
 刹那、何かを察したらしいアッシュが私の右手へ目やった。袖口に血がついていたことには、私もこのとき初めて気がついた。

「怪我してるじゃないか! 大変だ、はやく医務室に行かないと」
「これくらいは……どうってことありません。訓練に怪我はつきものですから」
「ダメだよ。ちょっとした傷からひどい病気になったりするんだから――」

 アッシュがそう言いかけた途端、私の視界は一瞬揺れた。彼の声が誰かと二重に重なって、また、例の錯覚が見えてしまった。
 頭の奥の奥の奥にある、何かの蓋が音を立てた。軋むようなそれは私の心をぐらぐらと思い切り揺さぶって、ほんの数秒間だが、思考回路のすべてを奪う。
 いきなりおかしな素振りを見せた私の顔を、怪訝そうにアッシュが覗き込む。私は今度こそ問題ないことを伝え、久しぶりに明るいうちから訓練したせいで眩暈がしたのだと、適当にそんなことをのたまった。
 アッシュは私の言葉を疑わしく思っているようだったが――私の右手に一度関心を戻し、そして再び口を開く。

「素人判断じゃどうしようもないし、一度マヌエラ先生に診ていただいたほうがよさそうだけど……えっと、それ、痛いよね」
「まあ……それなりには」

 どこで怪我を負ったのかはわからないが、おそらく木製の何かで負傷したことであろうことくらいは、見た目にそぐわぬ痛みがあったことから窺えた。それほど深い傷でもないのに、じくじくと蝕むような痛みがあったのだ。
 一度認知してしまうとそれは私の意識をゆっくりと占めていって、途端に少しばかり居心地が悪いような、鈍い不快感が右腕から這い上がってくる。一刻も早くどうにかしたいと――そんなふうに思ってしまった。
 この傷があったから手元が狂ってしまったのだろうと、今ごろ納得することになったが――しかし、利き腕にこんな面倒な負傷をするだなんて、迂闊で未熟な自分が恥ずかしい。
 自嘲混じりにため息をつくと、その意図を勘違いしたらしいアッシュがおもむろに私の手を取った。彼は弓矢を床に置き、空いた手のひらを翳すようにして私の手の上に持ってくる。
 彼は魔法にはあまり明るくなかったはずだけれど、果たしていったい何をするつもりなのだろう。死角で目を眇めた矢先、彼はにこやかに口を開いた。

「痛いの、痛いの、とんでけ~!」

 
 ――は?
 喉の奥からはみ出そうになったひと言を、すんでのところで飲み込んだ。
 おおかたライブか何かの白魔法をかけられると思っていたのだけれど、彼の口から出てきたのは子供だましのおまじない。ひどく自然な動作であったことから、彼が日常的にそうしているのだろうことは簡単に察せられた。
 驚いたまま固まる私をよそにアッシュはよしよしと満足そうに笑んでいたが、数拍してからやっと我にかえったのだろう。はたはたと手を動かしながら、あからさまにしどろもどろとなっていた。
 慌てるアッシュを目の当たりにしているうち、なんとか落ちつくことはできたが――それでも、先だっての衝撃はなかなか消えてくれなかった。

「あ、や、ちが……! あの、別に君のことを馬鹿にしているとかではなくて、その、弟たちによくこうして……いやいやいや、君を妹扱いしているとか、そういうのでもないんだけど」

 芋づる式に自爆していくアッシュは、思わず吹き出してしまいそうなほど可愛らしく見えた。
 彼のおかげで私は少しずつ冷静さを取り戻し、なんとか普段の調子を取り戻すことができたように思う。

「そういえば、アッシュは下に弟妹がいらしたんでしたか」
「そう、なんだけど……その。君を見てると、昔を思い出してしまうんだ。何年も前の、小さい頃――」

 ごにょごにょと口の中で言葉をこねくりまわすアッシュは、何か言い淀みながら視線を彷徨わせている。言いづらいことか否かは私の推し量れぬところであったが、彼の言う「昔を思い出す」という言葉にだけは、なんとなく共感できた。
 以前、アッシュが「どこかで会ったことはないか」と問うてきたことがある。そのときは特に思い当たる節もなかったので否定したが、日を追うごとに彼の言うことも一理あるなと思い始めた。それはお互いの出身地が近いせいだと思っていたが、彼を見ているとそれ以上の何かが過ぎるような気がするのだ。自分たちには何か、名前もつけられないような、ある種の縁があるのではないかと――

「……そうですね。私も、あなたを見ているとなんとなく幼い頃を思い返してしまいます。そう、こうしてとんでけ~ってしてもらったことも――」

 言いかけて、思わず口に手を当てた。そんなこと言うつもりはなかったのに、まるで自分ではない別の誰かが声をあげたのではないかと錯覚するほど、無意識に言葉を発していた。
 私の様子に気がついているのか、いないのか――アッシュは少しだけ前のめりなふうに話を続ける。

「む、昔って……その、誰にしてもらったとかは覚えてるの?」
「え? ええと……あれ?」

 刹那、私は急に何も考えられなくなってしまった。口をついて出た言葉を反芻しながら過去の思い出を手繰ってみるも、その先はすっかり真っ暗闇、もしくは真っ白な空洞――もっと言うと蓋の閉まった箱のようになっていて、何も思い出せなかったのだ。
 額を押さえ、視線を彷徨わせる私。その尋常じゃない様子を察したのか、アッシュはそれ以上何も言わず、ただ無言で手を差し出す。
 その小さな動作にも既視感をおぼえた私は、それを撥ねつけることもできず――否、そもそも「撥ねつける」という選択肢すらないように、ただ自然とその手を取った。見た目にそぐわぬ分厚い手のひらが、彼の人生の一端を物語っているように思える。

 私は、アッシュに連れられてそのまま医務室まで向かう。
 道中、会話らしい会話を交わすこともなかったけれど――彼に握られた手のひらの感触だけは、何日経っても消えなかった。

 
以前書いたものを加筆修正して持ってきました
2022/08/19 加筆修正
20200816