ちくちく、ぴりぴり

 アッシュの家は、同じ町のはずなのにずいぶん離れた場所にあった。私が想像していたよりも遠いところに彼のお城は建っていて、毎度ここから来てくれているのかと思うと、少しばかり罪悪感が湧いてくる。
 しかし、一家で住んでいたにはずいぶんちゃちな造りをしているなと――思ったより控えめだった彼らの住処を見上げていると、気恥ずかしそうにアッシュが「ここ、ほんとうは僕たちの家じゃないんだ」と教えてくれた。
 いわく、手頃な廃屋に無断で住み着いているのだとか。ご両親が営んでいた酒場は亡くなってすぐに潰されてしまったし、生家も簡単に奪われてしまったそうだ。
 しきりにまばたきを繰り返しながら、けれども整然とそう話すアッシュに、私は言いようのないやるせなさや憤りを感じていた。住めば都という言葉があるのは知っているが、いつ屋根が飛ぶともしれない廃屋で身を寄せながら生きるアッシュたちのことを思うと、どうにも無関心でいられそうにはなかった。
 ……私が、もっと自由であれば。もっと好き勝手動けるような境遇であれば、毎度毎度アッシュをこんなに走らせなくて済むし、もっともっと、アッシュのことを助けてあげられるのに。私のような、ただただ家で無益な時間を過ごすだけの人間とは比べ物にならないくらい、アッシュにはやることが山積みで、日々を必死に生きているのに――

「……なんだか、とても悔しいわ」

 麻袋を置く重たい音を盾にして、私はどうしようもなくみっともない独り言をつぶやいた。
 部屋の隅に置かれた麻袋の重量感で、何か立派なものが入っていると察したのだろうか――幼い弟妹たちは、アッシュに負けず劣らず目を輝かせながら私のそばに寄ってきた。アッシュの面影ある幼子たちを見ると、今度は胸の奥がぎゅうと締めつけられる。

「ねえ、おにいちゃん。もしかして、このおねえちゃんが、そう?」
「うん、そうだよ。このひとがお友だちのウィノナ。ぼくを助けてくれたんだ」
「あ――ええと。……はじめ、まして」

 子供たちはアッシュから私の話を聞いていたらしく、私の顔や振る舞いを見て、すぐに“そう”だと確信したようだ。
 小さい子どもなんていっさい接したことのない私は、いくらアッシュの弟妹とはいえどう接すればいいのかわからず、ただおろおろと慌てふためくばかり。アッシュに助けを求めてみても彼はくすくすと笑っているだけで、しかし、その和やかな様子を前にしては、下手に悪態をつくような真似もできなかった。
 好意的に話しかけてくれているのに、私の経験や愛想がないせいで、うまい言葉が返せない。もっとにこやかな人間であれば、この子たちを退屈させたり、がっかりさせたりしないで済むだろうに。
 けれど、そんな私の苦悩なんて露知らず。意外にも、彼らは私のことをいたく気に入ってくれたようで――私はみだりに傷つけやしないかとこわごわとした気持ちだったが――私を「ウィノナちゃん」と呼び、慕ってくれているふうに見えた。
 ちいさな手のひらが、私の手を握って、微笑む。繰り返すが、私は子供なんて生き物とはついぞ触れ合ったことがない。母と紋章学者以外に触れたのなんてそれこそアッシュくらいのもので、だからこそ、このちいさな手がひどく愛おしく、いじらしいものに思えてしまった。
 無邪気で幼気な子供たちを見ると、アッシュがやむを得ず悪事に手を染めてしまったのも頷けてしまうことだった。庇護欲をそそるとはこのことを言うのだろう、他人の私にすらここまで思わせるのだから、血の繋がった兄ならば尚更であろう。
 弟妹たちとの触れ合いを繰り返しながら、私は次第に、まるでこの胸がぎちぎちと締めつけられるような息苦しさを覚えていた。

 ――世の中は、どうしてこんなにも不平等なのだろう。この世界はアッシュのように心優しい人間ばかりが苦労して、私や母のような穢れた人間に限ってぬくぬくと過ごすという、汚れた不平がまかりとおっている。
 こんな社会は、きっとおかしい。こんなの絶対間違っている。思えば思うほどに悔しさが込み上げてきてしまって、私はついぞ溢れたことのない涙が迫ってきているのを察する。こんなところで泣くわけにはいかない。私は決壊を必死に防ぎ、逃げるようにこの家を去った。
 子どもたちにはまた来ると言ったけれど――しかし、それが全うできるかどうかは、正直なところわからなかった。
 家を出る際、アッシュに帰り道はわかるのかと訊かれ、問題ないとだけ答えてから振り返らずにそのまま走った。迷わず家に帰れる確証はなかったけれど、なんとなく、今は帰れなくなってもいいような気がしたのだ。
 けれど悲しいかな、私の足はまるで通い慣れているかのように容易く帰路をゆく。適当に走っているはずなのにまったくの無駄も迷いもなく家にたどり着いたおのれがひどく嫌になって、見慣れたはずの扉の前で、これみよがしに大きなため息を吐いた。
 鍵のかかっていない扉をそうっと開けて、がらんどうの家を覗き、もう一度ため息を落とした。

「……そうね。かえっているわけ、ないわよね」

 もぬけの殻である我が家に安心したような、なんとなく物悲しいような。いやに複雑な気持ちのまま、私は居間の椅子に座り、夕暮れの色をした部屋のなか、ひとり淋しく膝を抱えた。
 額を膝小僧にひっつけて目を閉じると、まぶたにこびりついたアッシュたちの顔が次々と浮かんでくる。耳の奥には彼らの笑い声が反響していて、ひとりぼっちなはずなのにひどく賑やかに感じられた。
 そうしてぼんやり過ごすうち、次第に胸の奥に溢れてくるのは「楽しかった」という思いと、そして――

「……こんなことばかり考えるから、私はなんにも変われないでいるんだわ」

 足元からぐずぐずと這い上がってくる、魔物のような自己嫌悪。考えてはいけないと思うのに、否、だからこそ思考はぐるぐるとまわりつづける。
 自分の今置かれている状況が、ひどく恵まれていることも。飢えも渇きも、来ない明日に怯える必要もない毎日が、彼らが喉から手が出るほどに欲しがっているだろう安寧の日々であることも、ちゃんと理解しているはずなのに。
 それでも、私は――

「――うらやましい、なんて。こんなこといってたら、アッシュにきらわれてしまうわね」

 苦しくてひもじい毎日だったとしても、明日すら危ぶまれるような、綱渡りの日々であったとしても。それでも、私には決して手に入れられないものが彼らの間には存在していた。優しくて、あったかくて、かけがえのない絆。笑顔あふれる家族というものを、私はいっさい知らなかった。
 私のことを慕ってくれる、懐いて笑いかけてくれる宝物のような存在を、愚かにも今の今まで知らずに過ごしてきたのだ。そのことがとても恥ずかしくて、みっともなくて。まるで自分が欠けた人間であることを突きつけられた気がして、どうしようもない空虚に頭から食われてしまいそうだった。
 アッシュたちの持つ絆が、彼らのまばゆさがひどく羨ましくて、反面、ほんの少しだけ妬ましくて。しかし、そんなことばかり思う惨めな自分こそが、今は何よりも疎ましいものに見えた。

 
2022/08/05