君と広がる世界の果てへ

「それじゃ、ウィノナ。お母さんは出かけてくるけれど、くれぐれも外には出ないようにしてちょうだいね」

 母は私が何か言うよりも先に出て行った。
 いつもそうだ。あの人は結局私の意見など露も求めておらず、ただ自分の都合を押しつけるばかりの女である。玄関先でぼうっと外を眺めながら、悪態の代わりに深い深いため息をつく。
 やがて小さくなった背中を見送って、私は扉の前に小石をふたつ置いた。これは彼と――アッシュと決めた合図である。時には玄関口、時には台所の窓枠、時には勝手口……とにかくどこか、目につくところに小石をふたつ置いておけば、それが母が留守という印。母が不在と知らせておけば、アッシュは遊びに来てくれる。

「これで、いつでもあの子にあえるわ」

 玄関扉をゆっくりと閉じながら、私はそうしてひとりごちる。
 彼に会うのが何より楽しみだった。否、むしろ今の私にとって、“楽しみ”と呼べるものは彼に会うことくらいしかなかったのだ。
 こんなにも閉じた世界の中、私の毎日は見慣れた壁と見慣れた天井、聞き慣れた声だけで過ぎてゆく。たまに知り合いの貴族が何冊か本を持ってきてくれるけれど、そんなものすぐに読み終わってしまうので暇を慰めるには不足すぎた。退屈な日々は、私から積極性というものをじわじわと奪っていく。
 だから、アッシュと会うようになって私の世界と人生はゆっくりと広がり、そればかりか色と光を伴うようになった。私は彼が話してくれる“外”の話が好きだった。もちろん彼の見ている世界だって決して広くはないのだけれど、それでも私にとっては新鮮で、輝かしくて。かつて彼の両親が開いていたという酒場の話も私の興味を引いてやまなかったし、いつかふたりで一緒にお店をやれたらいいね、なんて盛り上がったこともある。
 おとぎ話に例えるとしたら、アッシュは私にとって王子様のような人だろうか。ここから連れ出してほしい、なんて過ぎたことは望まない。ただ私に会いに来てくれて、ほんの少し世界を広げては帰っていく、それだけで私には彼が救世主のようなまばゆい存在に見えたのだ。

「……あ、よかった。こんにちは、ウィノナ」

 そうこうしているうちに、頬に真新しい傷を作ったアッシュが中へと入ってくる。普段が普段である手前泥棒に間違われてどこぞやかに連れて行かれてはたまらないので、注意深くあたりを見まわしておくのも忘れずに。
 私はアッシュを居間のほうへ連れて行き、最近新しくなったふかふかの長椅子へ座らせる。久しく味わったことがないらしい感触に目を輝かせ、ひとしきりはしゃいだアッシュは「弟たちも座らせてやりたいな」と言う。いつでも連れてきなさいと返してみると、さすがにそれは無理だよと笑っていたが。
 それなりに会話を弾ませる最中、やはり私の目は彼の頬へと引き寄せられてしまう。じっと貼りついたままの視線にアッシュも気づいたのだろう、どこか落ち着かなそうに肩をすくめていた。

「あなた、また何か無茶なことをしたの? ……ああ、とてもいたそうね」
「あはは……えっと、ここからひがしのほうに市場があって、このあいだ行商の人がきていたんだ。かおがしれてないなら大丈夫かな、とおもったんだけど、捕まっちゃって……このクソガキって殴られちゃった」
「……! ひどいわね、ゆるせないわ」
「ううん。わるいことをしているのは僕のほうだから、むしろとうぜんだよ」

 そう言って膝を抱えるアッシュ。殴られたときのことを思い出しているのか、はたまたおのれの悪行を悔いているのか、その表情は暗く沈んでいる。
 アッシュは何も悪くない。悪いのは、彼らを遺して死んでしまった両親と――こんなことを言うとアッシュを悲しませてしまうのはわかっているが――盗みを働かなければ生きていけない、この世の中だ。
 こんな世相は間違っている。彼のように善良な人間が割を食い、幾度も傷つかなければならない世の中こそが揺るぎない悪だ。
 私は、アッシュが傷ついているところなんか見たくない。彼には笑っていてほしいのだ。私に光を与えてくれるアッシュこそが、豊かで光ある善の場所にいてくれればいいと思う。
 とはいえまだまだ子供で何の力もない私に出来ることなぞ多くない。今すぐやれることなんてそれこそたかが知れていて、私は悔しさのあまり両手を強く握りしめた。
 きち、と音が立つほど握りこんだ手のひらには爪が食い込み、じんわりと血が滲んでいる。真っ赤になった爪の先と、時間差で伝わってくる痛み、無残なことになった手のひらを前に、私ははっと顔を上げた。
 ……あるじゃないか、この身ひとつても使えるものが。

「ねえアッシュ、私もその市場につれていってくれないかしら」
「ええ!? だ、だめだよ。家から出ちゃいけないっておかあさんに言われてるでしょう」
「かえってくるまでにすませればすむことよ。とにかく、あなたの“お仕事”を私にも手伝わせてちょうだい」
「そ――それは、ウィノナ。君もきけんだから」
「つべこべ言わずに、ほら」

 おろおろとするアッシュの首根っこを掴み、私はずんずんと玄関へ近づいていく。触れ慣れたはずの取っ手を握り、ゆっくりと傾け、木の板を押し込むように開け放つ。一歩、二歩と踏み出してみれば、目の前には広大にも思える町の風景が広がっていた。
 この町は――ガスパール領の下町は、決して治安が良いと言えない。こんなところに平穏なんてものを求めるだけ無駄なのだが、それでも領主の甲斐あってか本で読むほど荒れ果ててはいないようにも思える。爽やかな風が頬をなでる、髪を通り抜けた一陣のそれは思ったよりも冷たくて鋭い。
 眼前に広がるこの景色を、この光景を、私は知っていたはずだ。母を見送るとき、少しの散歩に出るとき、貴族に連れ歩かれたとき、たびたび目にしていたはずなのに、こうして今まみえてみると、なんだか全く違う異世界のようにすら思えてくる。毎日そこにあったはずの家。ずっと植わっていたはずの街路樹。少し前に住み着き始めた猫。昨日と何も変わらないはずの景色が、まるで今初めて相見えたもののようにまばゆくて、新鮮で。改めておのれの世界の狭さを突きつけられると同時に、私はいいようのない興奮すら覚えていた。
 家の中では決して味わえない、アッシュとふたりで出た外の世界。なんとなく足が震えるのは怯えているからなのだろうか、否、私はきっと燃えている。こんなにも簡単に手に入れられた自由を前に、心が奮い立っているのだ。

「――ねえ、アッシュ」

 すう、と深く吸い込んだ空気。肺をいっぱいにまわって、やがて吐き出されてしまうそれが、私がこうして外を出歩いたという証左になる。
 ああ、きっかけさえあれば、こんなにも簡単に私は“外”を手に入れることができたのだ。私は勇気がなかっただけ。その勇気をくれたのが他でもないアッシュで、そう、私は今、アッシュと一緒にここに立っている。
 私を縛りつける母でもない、値踏みするような貴族でもない、大切な友だちと共に。

「この町って、こんなにも広いのね」

 
20200806