ふれあいの袖

 気配を消すのは得意だった。
 存在を悟られぬよう、息を殺して日々を過ごした。自分なんかいないものだと、誰にも自分を知られぬように、母の手を煩わせぬように。自分が大人しくしていると、母はなんとなく機嫌が良かった。
 別に彼女に何か感情を抱いているわけではないが、そのほうが色々と都合がよかったのだ。何も知らない、どこにもいない、音を立てない子供として生きた。そうすれば何も問題は起きない。この狭い部屋で、平穏無事に毎日を送ることができる。
 兎にも角にも、気配を消すことに慣れた私はもうそうすることが癖になっていて。だから、きっとここに私がいることに気がつかなかったのだと思う。散歩に出ると言って帰ってこない母を心のどこかに置いていると、気づけば辺りはもうすっかり薄暗くなっていて、行き交う人も気配もまばら。窓の向こうに聞こえる声がどんどん少なくなっている夕暮れ時、建てつけが悪くなった勝手口から足音を忍ばせて入ってくる「誰か」がいた。足音の間隔と軽さから、おそらく大人ではない、私と同じくらいの子供であるように思える。
 狭い家の狭い居間にある、少し粗末な椅子を降りる。こちらも負けじと足音を潜め、ゆっくりゆっくりと音のほうへ近づいた。無作法なお客様はこちらに背を向けたまま棚をがさがさと物色していて、その手に握られているのはおそらく、今朝母が焼いていた蒸餅だ。

「ねえ」

 気づかれないように。そっと、耳元で囁くようにして声をかける。うわっ、と声をあげた勢いで棚に額をぶつける様をくすくすと笑ってやった。
 刹那、ごめんなさい! とこちらを振り返るやいなやの謝罪が飛んでくる。勢い良く頭を下げ、おそるおそる今度は上げる。おそらく少年だろうか、顔立ちはやはり幼くて、銀髪とそばかすがなんとなく特徴的だった。ぱっと見なら自分よりもよっぽど善良な性格をしていそうに思えるが、どうしてこんなことをしているのだろうか。怯えきったままの彼をじっと見つめながら、私は再び口を開く。

「あなた、なんでこんなことしてるの? それ、私のごはんなんだけど」
「それは……お、弟たちがおなかをすかせてる、から」
「おとうさんとおかあさんは? おしごとはしてないのかしら」
「ふたりは……もう、しんじゃった。だから、僕ががんばらないといけないんだ」

 うるうると目を潤ませる少年。その、薄い緑に汚れは感じられなかった。本来ならばこのような悪事に手を染める人間ではないのだろう、盗みの理由からしてもそれは明らかだ。
 彼はきっと、私より何倍も純粋である。母と呼ぶべき人間に腫れ物のような扱いを受けながら、それでも彼女に何を思うこともなく、ただひたすら彼女の寝首をかく機会を狙っている私なんかより、よっぽど。
 気まぐれなのか、気の迷いなのか。このまま放っておくこともなんとなく憚られてしまったので、出かける前の母が近所の人間と話していたことを思い出す。しばらく留守にしているらしい、狙い目の家の話を。

「うちのうらにある家、赤いやねのところ。たしか、今日と明日はでかけてるからるすだって言ってたわ」
「え……? あ、あの」
「ここいらではまあまあおかねもちの家だから、きっと良いものもあるはずよ。いくならうちじゃなくてそっちにしてくれないかしら。さ、それも返して」

 言うやいなやで少年の手から蒸餅をはぎ取り、元あった場所へ戻しておいた。適当に布をかけておけば触ったなんて気づかれないだろうし、なんなら帰りが待ち切れなくて食べてしまった、とでも言っておけばいい。どうせあの人は追求なんてしてこない。
 呆気にとられたままの少年は、私の顔と蒸餅を交互に見てはわたわたとしている。なんとなく苛立ったので首根っこを掴み、勝手口のほうへ向き直らせてやった。一瞬体が浮いたことに彼はひどく驚いている。

「ほら、いったいった。あんまり長居されるとこまるわ。おとなをよぶわよ」
「あっ――ご、ごめんね!」

 大人という響きに我に帰ったのだろう、少年はそそくさと勝手口から出ていった。この短距離で何度かつまずいていたあたり、きっと訳がわからなくなっているのだろうな。
 ――どうしてこんなことをしてしまったのだろう。赤の他人に助言するなんてことは今までなかったはずなのに、と考えて、そういえば外の人間と話したこと自体が久しぶりなのだと気がついた。ずっと、母と彼女の知り合いである紋章学者としか触れあっていなかったから。
 ……嬉しかったのかもしれない。名も知らぬ他人とはいえ、誰かと言葉をかわせたことが。
 なんとなく、胸があたたかいような怖いような気持ちになりながら踵を返していると、今度は音を立てて勝手口が開いた。母が帰ってきたのか、それとも今度こそ悪党がやってきたのか。思わず臨戦態勢を取ると、ひょこっと顔を覗かせたのは先ほどの少年で。

「あの――あ、ありがとう!」

 はにかみながらそう告げて、彼は今度こそ帰っていった。彼の去った足元には、おそらくその辺りで摘んできたのだろう小さな花が置かれている。名前も知らない白い花。こじんまりとしたその見てくれは、先ほどの少年をなんとなく彷彿とさせるもので。

「……『ありがとう』なんて、はじめて言われたかも」

 ファーガスの冬にも負けないくらいの白は、きっと彼の清らかな心根を表しているのだろうと思った。

 
20200729