04

 次に目を覚ましたとき、ピエリスの視界にあったのは変わらない真っ白な天井であった。
 一切の汚れも見えない白。心が滅入りきったときにはまるで自分を拒絶するようなふうに見えていたこの天井も、今は少しだけ優しい色に思える気がした。この身を包み込んでいるシーツもまた同じで、今なら自室の壁ですらも怖くはないような気がする。
 ゆっくりと体を起こしてみると、なんとなく心が軽いせいだろうか、昨日よりも気分が良い。理由はなんだ、と考えたときに思い至るのはやはりさっきの夢にグラジオが来てくれたからで、それも続いていた悪夢のたぐいではなく、優しく甘ったるい夢で彼に会えたことが何よりも嬉しかった。
 今日の夢を覚えておこう。この夢を胸の奥に閉じ込めておこうと、そう誓わずにはいられないほどあの夢はピエリスに確かな力をもたらしている。このまま大切に持っていられたらもう少しだけ保つかもしれない。今の自分ならビッケやジュナイパーたちの気持ちをもう少し受け入れることが出来るはずで、このままゆっくりと、穏やかに日々を過ごしていければ、きっとグラジオが帰ってきたときも笑って出迎えられるはずだ。
 腰のモンスターボールに手を触れる。ありがとうございます、ジュナイパー。そしてみんなも。そう呟くとモンスターボールたちは一斉にガタガタとけたたましく揺れ始めて、ああ、自分はこんなに心配をかけていたのだなあという実感を得られた。
 彼らの向けてくれている愛情に気がつけなかったおのれを申し訳なく思いながらも、なんとなくくすぐったいような、けれどひどく嬉しいような――そんな感覚を強く覚え、照れをまじえて頬が緩む。
「ありがとう、みんな。……わたし、もう少しだけ頑張ってみます。あ、もちろん、無理はせずに」
 微笑みながら言うピエリスは、ふと何かの気配を覚えてベッドサイドのテーブルに目を向ける。なんとなく視界の端にちらついたそれをビッケの見舞いの品か何かだと思い、なんてことない気持ちで目に入れて――そして、そのまあるい目を落ちそうなほどに見開いた。なぜならテーブルの隅には今ここにあるはずのない、あってはならないものが存在していたから。
 間抜けな声が出そうなほどの動揺は、どうやら救護室の外にいた「誰か」を中に入らせるに充分すぎるものだったらしい。後ずさった拍子に思い切り壁にぶつかって後頭部を強く打ちつけたうえ、引っ張ったシーツが暴れたおかげでテーブルの上に置かれていたコップを落としてしまったのだから当然と言えば当然だ。
 電子音とともに開いた扉に目をやって、そしてカーテン越しのシルエットと穏やかな声を聞いてピエリスはもはやとびはねる勢いで声をあげた。いくら疲弊して寝ぼけていようとその声を、その姿を間違うはずがあるものか。
 そこにいたのは他でもない、けれどもまさか、そんなわけは――
「ぐ、ぐ、ぐ、グラジオさま……!?」
「? ああ、そうだが」
 事もなげに言ってのけるグラジオは、いささか迷う様子を見せながらもカーテンの隙間から顔を覗かせる。白い布の合間に見えたのはやはり正真正銘の、記憶よりも少し精悍な顔立ちになった愛おしい人の姿であって、ピエリスは叫び出しそうなおのれを必死に律して口を押さえた。どうして、と絞り出す声はひどく情けない響きをしている。
「どうして……? 武者修行から帰ってきたからだ。そもそもオマエ、さっきもオレと話をしただろう」
「あ、あれは、あの、夢ではなく……?」
「オマエ、寝ぼけているのか。オレはきちんとした本物だ、フーディンやゲンガーの見せるような幻ではないぞ」
 見ろ、とグラジオが指差した先にあるのはサイドテーブルと、その上に置かれた小箱。白い箱に藤色のラインが入ったそれはピエリスのためにしつらえたことがひと目でわかる造りであって、何より夢の……夢だと思っていたあの逢瀬を現実と知らしめるのにあまりある物的証拠であった。
 ピエリスは口をふにゃふにゃと動かしている。今までの人生でおおよそ人に晒したことのないその顔は、長くそばにいるグラジオからすれば非常に愉快なものだったのだろう。堪えきれずに吹き出したグラジオを見て、ピエリスはさらにその動揺を強くした。オクタンもかくやといったふうに真っ赤な彼女の頬は、たしかに誰が見たとしても笑いを誘うものであった。
「フッ……まあ、元気そうで何よりだ。さっきはどうにも憔悴した様子だったからな」
 ――さっき。そのひと言を聞いて、今度ピエリスを襲ったのは申し訳なさといたたまれなさであった。
 夢だから……夢なのだから、夢であるなら許される。そう思って吐き出した弱音をよもや本人にぶつけてしまっていたとは。羞恥と罪悪感と恐慌とその他諸々が一気に込み上げて思わずまた変な声を漏らしそうになったピエリスへ、グラジオはずいと手のひらを突き出して静止する。その仕草はひどく懐かしいもので、「何も言うな」と伝える代わりの所作、いわば彼の癖のようなものだった。
「いいんだ、ピエリス。あれは夢だったのだろう」
「ぇ……あ、あの」
「夢の話だ。だから、オマエもオレの恥ずかしい告白なんか覚えていない。そうだな?」
 いつの間にやら顔を背けているグラジオは、なんとなく、本当になんとなく耳を赤くしているような気がした。ピエリスの照れが映ってしまったのか、それとも彼も逢瀬を思い返して今さら羞恥にまみれたのか。その真偽はまったくもってわからないが、しかし注視するのも野暮だろうと、ピエリスは少ししっかりし始めた頬のラインへ視線を移す。
 けれどどこを見てもやはり可愛らしい「ぼっちゃま」のすがたがうかがえる気がして、今度は胸の奥から溢れんばかりの愛おしさと、変わらない彼への忠誠の気持ちを思い出した。
 普遍的な彼の優しさにあてられて、ピエリスはつい先ほどまでの動揺はどこへとばかりに微笑んでいる。ジュナイパーたちの与えてくれた安らぎが、グラジオという無二の存在によってその場に定着したような……そんな、不思議な感覚だった。
 ひとりでいるような気持ちでいながらも、自分はずっと、たくさんの人たちに支えられてきたのだ。その事実を改めて胸に落とし込めた気がする。
「と……とにかく。ピエリス、オマエは早く体を治せ。リーリエも心配していたからな」
「あ……はい。かしこまりました。そうですね、このままでは世話係のお役目も果たせませんし」
「フッ……そうだな。それに、今回の武者修行で新しい仲間が増えたんだ。ソイツの実力がどこまで通用するか、まずはオマエ相手に試したい」
 言いながら、グラジオは腰にくっつけたボールをくるくると転がしてみせる。指で隠れたそれには一体どんなポケモンが入っているのか? この距離ではシルエットもよくわからないが、グラジオ本人の表情を見るになかなかの手練であることは確かだ。その証拠にピエリス自身もバトルへの期待を高まらせていたし、グラジオへの恋慕とはまた別の意味で鼓動が速くなるのを感じていた。
 自分の知らないグラジオのポケモンという一抹の淋しさはあるが、けれどもそれを上回る高揚感が今のピエリスを包んでいる。夢のことを差し引いても今はひどくバトルへの熱意が溢れていて、やはり自分は腐ってもポケモントレーナーなのだという自覚もまた芽生えた。
 ぎゅう、と手元のシーツを握り込む。グラジオがここにいる実感を噛みしめるように目を閉じると、まぶたの裏に映ったのはここ数ヶ月の暗闇のような毎日だ。
 皆からの愛に気づかないまま、深淵を彷徨い、暗夜を掻き分けるように過ごした。答えも出口もない日々に溺れたような気持ちになって、けれどもそれはただ自分が心を閉ざしていたせいだ。誰も自分を見放しちゃいない。誰も、自分を放っておかない。煩わしいと思っていた気持ちがそうではないものということにようやっと気づけたピエリスは、きっとこれから何があっても、その目を開いて生きていけると希望を視界に入れられた気がした。
 つらく、苦しい日々だった。けれどももう大丈夫だ。結局それも今グラジオがここにいるせいで、また彼を失えば今度こそダメになってしまうような――そんな不安や疑念もあるけれど、もし次に何かがあっても、きっと立ち向かっていける。少しだけ上を向いていける。なぜなら今のピエリスにはちゃんと、自覚を持って「仲間」と呼べる人やポケモンがいるから。
 ――グラジオさま。名前を呼ぶ。その声に反応して振り返るグラジオは、なんとか体裁を取り戻したのだろう、耳の赤みはいつの間にやら気にならない程度に治まっていた。
 ピエリスが口を開く。その唇は柔らかい声を、ひどくゆっくりと吐き出した。
「おかえりなさいませ。……とても、とてもお会いしたかったです、グラジオさま」

 
三年越しの完結
20201031