01

「近いうち、ここを出ようと思う」
 それは、なんてことない昼下がりのことだった。
 久々にエーテルパラダイスへと戻った日。ここを出た当時と変わらぬままのグラジオの部屋で、二人は羽根を伸ばしていた。いま落ちついているのはバルコニーに設置されたテーブルスペースで、ここは昔からグラジオのお気に入りであり、よくリーリエやルザミーネと共に三時のおやつに勤しんだ場所である。空を飛ぶヤヤコマやキャモメの群れが遠くに見えて、もっと向こうへ目をやればホエルコたちのしおふきの様子も窺えるなど、ロケーションも抜群だ。
 あの頃はピエリスが腰を下ろすことなどなかったけれど、グラジオに誘われた今日は少しだけ特別なのだ。ルザミーネ御用達の店のモンブランとティラミスを共に平らげ、今は紅茶を舌のうえで遊ばせている。香り高いダージリンだ。
 彼らはひどく疲弊していた。なぜならほんの数日前まで、このアローラ地方全土を闇に覆わんとした大事件――異世界から来た調査隊、ウルトラホールの向こう側で起きた出来事、そしてネクロズマの暴走など、予想もつかないような目まぐるしいアクシデントに必死で立ち向かっていたのだから。直接の関与は浅くとも、それぞれを襲った怒涛の出来事は今なおグラジオとピエリスの心身をじわじわと蝕んでいる。未曾有の恐怖はそう簡単に拭いされるものではなく、その傷を癒やすため、二年ぶりに自宅で寛いでいるというわけだ。
 掃除が行き届いているがゆえかまっさらなままの部屋はどこか無機質であるものの、けれどもいくつかの家具のおかげで冷たさは感じさせない。グラジオの趣味により黒の家具が目立ちはすれど過ごしやすさは変わらなかった。ピエリス自身は居住区の幹部区画のほうに自室を持っているのだが、やはり敬愛するグラジオの気配がそばにあったほうがいい。
 世話係となってもう七年目、けれどもどこか壁のあった関係も二年という短くない逃亡生活のなかで少しずつ変わっていった。彼の存在は日常生活の中にもよく馴染んできたし、変に構えたり緊張したりすることもなく、不躾にならない範囲でリラックスも出来ている。傍らに腰を下ろすシルヴァディも同じようだ。
 そうやって、これからもずっと穏やかに二人と数匹で毎日を過ごしていけると思っていたのに――波紋のように落とされたのは冒頭のひと言であった。何気ないそれに和やかな空気は一瞬で色を変え、ピエリスは外を眺めていた視線をグラジオのほうへ投げかける。彼は食べ終えたケーキ皿を見つめていた。
「ここ……と言いますと、エーテルパラダイスですか? 確かにもう充分休息はなさったと思いますが」
「違う」
「まあ、ならばこの部屋でしょうか? そんなに勿体ぶらなくても、思い立ってすぐ――」
「ピエリス」
 しん、と空気が静まり返る。申し訳ございません、そう言うピエリスの声はいつも通りだ。否、あくまでいつも通りを気取っているに過ぎない。もう既に彼女の精神は少しずつ予感に蝕まれている。
 ここまではいい。ここまではまだ、なんとか「いつも」の範疇である。ピエリスの手が迷うようにティーカップを傾けた。喉へ流れ込むダージリンの、ぬるい温度が心地よい。
「アローラから、出るんだ」
 そのひと言が、ひどく重くのしかかった。ピエリスの視線はグラジオからシルヴァディへと移り、どこか忙しなく彷徨っている。シルヴァディもグラジオの胸中を察しているのだろうか、ピエリスのことを諭すようにじっと見つめている。真摯な視線は刺さるようで、鈍い痛みを伴っていた。
「今回のことで、オレは自分の弱さを実感した。大事なときに役に立たないのはもう懲り懲りだし、もっと強く、誰にも負けないくらいになって財団を守らねばならない。それに、ハウやアイツとずっと良い関係でいたいんだ」
「……確かに、ええ、そうですね。グラジオさま、ずっと上を見ていらっしゃいました。うん、確かに、そう考えるのは必然のように思います。それに――」
「それに?」
「……お二人のこと、大切に想ってらっしゃるのも伝わりました」
「アイツらは……まあ、仲良しこよしなお友達ではないが」
 グラジオがダージリンティーを啜る。優美な仕草は育ちの良さを感じさせ、服装はどうあれやはりこの部屋に馴染むのだ。
 かつてはかごの鳥であり、外の世界を知らぬまま大きくなった少年は、きっともうここには居ない。彼は立派になった。自分の意志を強く持って、前を向いて、遠い世界へ足を踏み入れられるだけの勇気ある男の子であるのだ。
 そんな彼であるからこそ、きっと「ひとり」でもこのアローラを出て行ける。広い世界へ飛び出せる。一人ではあれど独りではない。なぜなら彼にはシルヴァディやルカリオ、他にも心強い仲間が居てくれるからだ。主人への忠誠心により姿を変えるポケモンたちが居る、そして彼らがグラジオの元で立派に進化を遂げられたのが、きっとその証左である。
 彼はもう、甘やかすだけの人間など必要としないのかもしれない。
「でしたらわたしは――」
「オマエは来るな」
 ぴし。何かが軋む音がした。それはまるでガラスにヒビでも入ったような、石が砕ける予兆のような、ピエリスの「何か」を確かに打ち砕かんとする。グラジオはまっすぐにピエリスを見る。その目には、やはり迷いは見て取れない。
「武者修行にはオレひとりで行く。オマエはここに残れ」
「……あ、」
「もう決めたんだ」
 言葉が出ないとはまさにこのことだろうか。ピエリスはすっかり言葉をなくし、藤色の瞳は困惑ばかりを浮かべて揺れている。わなわなと震えるくちびるは言葉にならない言葉ばかりを吐き出していて、注視せずとも動揺しているのは丸わかりだ。
 そんな彼女の様子に驚いているのは他でもないグラジオであった。グラジオの知るピエリスはここにはいない。いつも通りのらりくらりと言葉をかわし、さっきのようにとぼけた様子で茶化してくると思っていたのだろう。その名を呼んで制止させればいつものごとく謝罪を言って、そのまま何にもないように受け入れられると考えていた、その思い込みは彼の瞳と動揺を見れば誰でもわかる。
 だがグラジオの予想は見事に外れ、今のピエリスは彼が見たこともないくらいに取り乱し、つつけばすぐにでも崩れ落ちそうだった。その証拠にまあるい瞳からひと粒の涙が伝ってくる。一度堰を切ったそれは留まることを知らず、ほろほろと彼女の頬を濡らしていった。
「どうして……どうしてですか、グラジオさま」
「待てピエリス、落ちつけ」
「わたし、何かしてしまいましたか? グラジオさまの気に障るようなことを言ってしまったのでしょうか、あなたを不快にさせるようなことを、わたし、」
「ピエリス――」
「なんで、どうして! わたし、ッ、わたし、捨てられてしまうのですか――」
「ピエリス!!」
 珍しく声を荒げたグラジオにより、ピエリスの狼狽は停止した。いささか無理矢理な手段に肩を跳ねさせたピエリスは、けれども涙を溢れさせたまま俯いて声もなく泣き叫ぶ。
 グラジオは怯えたように身を縮こまらせる様を見下ろしながら、子供のごとくしゃくりあげる両肩に手を触れ、そっと顔を上げさせた。今のグラジオは、かつてリーリエに向けていたのと同じ、ひどく優しい顔をしている。
「オレは、別にオマエが嫌になったからひとりで行くわけじゃない」
「う……じゃあ、どうして」
「――おとこ、だからだ。恥ずかしい話、オレはまだ本気のオマエに勝ったこともないだろう。オマエより強くなって、オマエよりも大きくなって、一人前の男になりたい」
「…………」
「オレがオレを認められたら。立派な大人の男になれたら、そしたら必ず迎えに来る。伝えたいこともあるんだ、だから――」
 待っててくれ。
 そう言うグラジオに、ピエリスはぐちゃぐちゃなまま頷いた。
 頷くしかなかったのだ。

 
20171127
20201027 加筆修正