息吹と死滅

 ――高科更文は天才だが……お前はどうだ?
 挑戦的な笑みを浮かべた校長先生の言葉が、今もこの胸に深く突き刺さっている。
 高科更文は天才だ。それはこのクォーツにて、彼の後輩として過ごした一年間でいやというほど痛感させられた。彼は紛うことなき天才なのだ。ただ舞台に立つだけでも華があって、ともすれば他人を蹴落としてしまうほどの勢いでギラギラと輝いている。僕は立花継希のツの字も知らないが――もちろん先輩方が話しているのを聞いたことくらいはあるけれど――彼と連れ立っていたときは、きっと今とは比べ物にならないほどの輝きを放っていたのだろう。
 けれどそれはそれ、これはこれだ。結論から言えば、僕は彼のような天才ではなかった。よくて秀才、器用貧乏以下。短はないが長もない程度のものしか持っていなかった僕は、結局校長先生の期待に応えることができないまま、ユニヴェール公演まであと十日というところまで来てしまったのである。
 校長先生や江西先生から渡された数多の資料。それらは退学後の就職や進学をサポートするためのものだ。結果として一年を棒に振るようなことをさせてしまったと、あの飄々とした校長先生が悲痛な顔をしていたことも、このまぶたには嫌味なほどくっきりと焼きついている。
 とはいえ当人である僕としては、別にこのあとがどうなろうとも正直どうでもよかった。ユニヴェールにはもういられない、その事実を僕は驚くほど静かに、真正面から受けとめてしまっている。一年間まるごと秘匿してしまうことにはなるが、退学後はまたアガタ女学院に帰ればいいだけだし、一年留年したところで特に痛手も感じない。これからのこと、人生の末、そんなものに僕はまったく興味を持っていなかった。
 なぜなら僕の夢は――ユニヴェール歌劇学校に入った真の目的というものは、この一年のすべてをかけ、きちんと叶ってしまったのである。僕は高科更文を求めてここにきた。僕の生い立ちに密接な関わりのある彼に近づいて、何かしらの関係を結んでみたかったのだ。
 その結果得られたのはユニヴェール歌劇学校クォーツ組における先輩と後輩、という凡庸な関係性であったのだけれど……それだけだとしても、この僕にとってはもはやあまりあるほどの僥倖であったのである。
 願ったり叶ったり、これですべてだ。退学といういわゆるバッドエンドと呼ばれそうな終わりであるけれど、僕にとってはそれなりに満ち足りたものですらあった。
 だから――今こうして校長先生に呼び出されたことも、退学を取り消されてしまったことも。正直、うまく飲み込めてはいなかった。
 言葉を受けて呆然と立ち尽くすままの僕を一瞥し、校長先生は再び話し始める。
「あっちこっちと振りまわしてしまって悪いが……どうしてもお前の力が必要になった。だからどうか、来年度もこのユニヴェールの生徒でいてはもらえんだろうか」
「……どうして、と。理由を訊いてもよろしいでしょうか」
「来年度――78期生に、『お前と同じ』生徒が来る」
 限界まで私情を削ぎ落としたような声色で、校長先生は確かにそう言った。
 僕と同じ――そう表現されて、思い至ったのはおのれが抱える最大の秘密だ。本来ユニヴェールに通えるはずがなかった僕。金銭的な問題でも、才能的な問題でもなく、もっと根本的な……そう、たとえるなら生まれたときから不可の烙印を捺されていたにも等しい出自。
 思案をめぐらせ理解した。来期に入学してくるだろうその子の事情も、そして、自分がその子に何をするべきかも。僕がついと顔を上げて校長先生の目を見ると、彼もまた僕の思考を読み取ったのか、昨日までの罪悪感に満ちていた瞳を少しだけ上に向けているように見える。
「……その子の助けになればいいんですね。『同じ』で『先輩』である、僕が」
「理解が早くて助かる。まあつまりはそういうことだ、よろしく頼んだぞ」
「はい」
 校長先生に深く頭を下げ、僕は静かに校長室をあとにした。
 新たな理由を与えられた。これからの指針、目的すら作ってもらった。どうやら僕はまだこの学校にいても許されるらしく、偽りだらけの学校生活をもう一年続けさせてもらえることは少しだけ苦しくもあり、けれどなんとなく心が浮くような心地もする。
 校長室からの帰路、ふと顔を上げると雪解け間近のテラスが目に入る。また春がやってくるのだ。新たな夢や希望を抱き、きらきらと瞳を輝かせた新入生が……僕と同じ痛み、もしくは苦しみを抱えるだろう後輩がここにやってくる。
 楽しみに、しているのだろうか。来春の出会いや、平坦で波の立たない人生に与えられんとする起伏を。空虚と寂寥を抱えているらしい僕の人生は、もしかするとこれから驚くほどに色を変えてしまうのかもしれない。
 ……初めてだ。こんなふうに胸を弾ませて、何かを楽しみにするというのは。おのれのなかに芽生えた熱い予感に、僕は人知れず胸のうちを沸き立たせる。
「……ありがとうございます、校長先生」
 それと同時に、おのれの内に秘められた空虚が悲鳴をあげるのを感じながら。僕はユニヴェール公演でジャックエースを演れなかったおのれを小さく否定して、クォーツ寮への道を辿った。

 
20210330