05

 こん、こん。控えめにドアをノックすると、思ったよりも近いところから主の声が聞こえてくる。
 やがてけたたましい足音とともに、おそらくあと一歩前に立っていたら額と事故を起こしていたかもしれないと危ぶまれるほどの勢いで、思い切りドアが開いた。ドアに負けず劣らず勢い良く顔を出した世長は、なぜだか息せき切ったように必死の形相で僕を見る。
「あ……ごめん、僕。立花だと思った?」
 気圧されたのかもしれない。僕は考えるよりも先に謝罪を口にしたうえ、思わず後退りまで。世長が立花を求めたのだろうと思い至るのに、そう時間はかからなかったせいだ。
 引いたような謝罪で気を悪くしないようからかい混じりに言ってやるが……返ってきた世長の言葉は、ひどく意外なものだった。
「いえ……実は、僕もちょうど先輩のことを考えていたので」
「僕?」
「はい。合宿が始まってから今まで、落ちついて話す機会がなかったな、と。だからその、会いに来てくれたのが嬉しくて」
 少し視線を下げながら、気恥ずかしげに世長は言う。照れ笑いの理由は僕にはわからなかったけれど、仮に彼が僕に対して「会いたい」と思ってくれたなら、それはとても嬉しいことだ。
 ――そう、嬉しかったのだ。他でもない世長に求めてもらえたことがひどく喜ばしくて、緩みそうになる頬を必死でこらえながら視線を下げる。これくらいユニヴェール生なら造作もないことだから。
 ただ、感情を抑え込んでいた僕の様子は、もしかすると世長の目に少し違う色で見えたのかもしれない。様子をうかがっていた彼は、何かに気づいたように僕の手を引く。
 こんなところでごめんなさい、よければどうぞ――そう言って僕を部屋に招き入れたあと、音もなくそっと鍵をかけた。長らく寮で生活しているのだし、おそらく立花ともこうして内緒話をすることが多かっただろうから、むしろ当然の意識といえるだろう。
「ここ数日、白田先輩に負けないくらい忙しそうにしてたから……なんとなく、声をかけるのも気が引けちゃって」
「そんなの気にしなくていいのに」
「……はい。先輩ならそう言ってくれるって、わかってはいたんですけど――」
 77期生の皆さんと、とても楽しそうにしてたから。
 世長の声には哀愁が満ちている。それはおのれを卑下しているのか、気を遣っていたからか……それとも他に、何かしらの含みでもあるのだろうか? どこかで聞き覚えがある声のような気もするけれど、しかし即座に正解を導き出せるほど僕は世長に詳しくなかった。
 わからない。世長創司郎という人間と深く関わるようになってもう数ヶ月が経つけれど、僕は未だ彼の持つ深淵の底を見ていないのだ。
 けれど、この表情の意味や彼の意図ですらも、幼なじみである立花なら察することができるかもしれない。……そのことが、なんとなく悔しい。
「あ……そういえば僕、ずっと先輩に訊きたいことがあって」
 ふ、と世長が顔を上げる。その表情や瞳の色は普段と何も変わりがなく、僕はただ、沈黙でもって言葉の続きを促してやる。
「先輩は、どうして僕に秘密を話してくれたんですか?」
 世長が僕を部屋の奥へ誘う。備えつけのソファは普段使いのものより何倍もふかふかしていて、去年座ったときと変わらない柔らかさを誇っていた。寮に置いてあるものとは段違いだし、実家には座椅子こそあれどソファのたぐいは置いていない。珍しい感触に浸るがごとくしっかり腰を沈めると、世長は僕の正面に座り、迷うように言葉を紡ぐ。
「その……先輩も、性別のことがバレたら退学と言われていたんでしょう? なのにどうしてあんなふうにすんなり話してくれたのか、ずっと気になっていて」
「ああ……」
 僕のことをまっすぐ見つめながらも、特に探るようではない。単純に気になるだけなのか、訊いてはいけないことだと思い込んでいるからなのか。踏み込むことを恐れるようでもある世長の視線は、逆に僕からすべてを引きずり出すような力を持っている。
 ――教えてやるのに。君が望むならなんだって叶えてやると、そんな偽善じみた庇護欲を刺激されているのかもしれない。
 僕が小さく微笑みながら口を開くと、世長は固唾をのんでその動きを追っているようだった。
「……今の自分に存在意義を感じていないから、かも。仮にいま正体がバレてここを追い出されるような羽目になっても、特に問題はないし」
「そんな……」
「本当にね、いらないんだよ、今の僕。高科先輩とこれ以上どうにかなることはないし、そもそもあの人はもう卒業しちゃったでしょう。立花だってもう、僕の助けなんかいらない。世長や織巻という心強い味方がいて……今更、同じ境遇の先輩なんて――」
 思い出すのは、なぜ自分が今もユニヴェールに籍を置けているのかということ。
 本来ならば、僕はもうすでにここを去っていなければいけない人間だ。性別こそ隠せているけれど、結局一昨年の最終公演でジャックエースを演ることはできなかった。退学までのカウントダウンを肌身に感じながら過ごしたあの冬、校長先生の温情を受けられたのはひとえに立花希佐という存在がいてくれたからだ。
 来年度――78期生に、「お前と同じ」生徒が来る。確かに校長先生はそう言った。来期にも性別を偽ってユニヴェールの門を叩く生徒がやってくるから、その子のサポートをしてやれるようにと僕はこの学校に残されたのだと思う。
 立花の在学条件に「周囲と信頼関係を築く」というものが追加されているのを聞いて思ったのだ。ああ、きっと僕は自分が思っているよりも孤立していて、独りぼっちのさみしい背中をした人間なのかもしれないと。
 だからこそあの日、木陰で嘆く世長に吸い寄せられるかのごとく声をかけてしまったのだろう。
「僕はきっと……もういらない。ここにいたって意味がない。だから、いつ退学しても構わないって、自暴自棄になってるのかもね」
 次から次へと出てくるのは自己否定で塗り固められた刃のような言葉たち。それはかつての世長がそうであったように、僕の口から出てくるものこそが、この心をズタズタに傷つけんとしているのだろう。
 けれど僕は何も感じない。否、何も感じなくなってしまった。度重なる見えない暴力は自衛の手段に麻痺を選ばせ、逃避すら許されなかった幼い心を、痛覚を殺すことで守ってきた。
 誰に何を言われたとしても、僕には何も響かない。何をされても構わない。目の前で何が起こったとても、この心が揺り動かされることなどない。この世のすべては他人事であって僕には何も関係ないこと――そう思い込み、いつしか僕はこの世界に参加することをやめていた。
 そうやって生きていたはずだったのに。知らず知らずのうちにこの僕を変えていたのは、他でもない立花だ。
「……いや、です」
 自嘲気味に膝を見ていた頃、世長がふと口を開く。その声は決意に満ちたようでもあって、震えているわりに弱さは感じられなかった。
「世長――」
「先輩! 僕は、先輩にいなくなってほしくありません」
「……どうして、って。聞いてもいい?」
「あ――そ、それは、」
 僕が訊ねれば、その強さは瞬くうちに消えてゆく。
 ……世長はまた傷ついているのだろうか。僕の言動ひとつひとつによって、他人には感知できないような、世長創司郎という人間の奥の奥の奥にある何かが悲鳴をあげているのかもしれない。
 わからない。けれど、知りたいと思ってしまった。その奥に少しだけ……否、もっともっと、奥深くまで触れてみたいのだ。
 初めてだ。こんなにも狂おしく、どうしようもないくらい他人を求めてしまうのは。
「せ……先輩と、離れたく、ないから……」
「なぜ離れたくないと思うの?」
「それは――」
 問い詰めるような僕の言葉に世長は迷う。やがて再び俯いて思考の海に沈んでいったのは、おそらく考えをまとめているから。今すぐにでもその肩を揺さぶってすべて引きずり出してしまいたいけれど、そんなことをしては元も子もないので必死に耐える。
 奥歯がぎり、と不快な音を立てるのをすぐ耳元で聞きながら、永久のような時を待った。
「……最近、先輩のことを考える時間が増えているんです。時には希佐ちゃんよりも先輩のほうがたくさん頭に浮かんできて……まるで、何かを塗り替えられているみたいに」
 世長の顔が苦痛に歪む。変化することの恐怖と痛みを一身に受けているのだろう、もしかすると言葉として吐き出して自覚することすら、今の世長には耐え難い感覚を伴っているのかもしれない。
 それを認めてしまえば世長創司郎という人間の根幹であり支柱である「立花希佐」が揺らぐことにもなりかねないと、彼自身が深く理解しているようだから。
「怖い――怖いんです。自分のなかの希佐ちゃんが消えていってしまうようで……あの子のことを忘れるのが怖い」
「――」
「僕は今までもこれからも、ずっと希佐ちゃんのために生きていく。あの子のそばにいるって、絶対に消えないって決めたのに……!」
 ぐしゃり。両手で顔を覆う世長が、指の隙間から感情を漏らす。
「あなたが……雛杉先輩が、僕のなかに入ってくる。僕の大切なものを、奪っていく――!」
 それは、幼く繊細な少年にとっての宝物。
 何物にも代えがたい大切なものを、もしかすると僕は暴力的なまでの勢いで取り上げているのかもしれない。
 まるで「あなたのため」と言って価値観を押しつけてくる母親のように。良くない大人、未熟な先生、パワハラ上司……ともすれば社会のガンだと言われるような人間と同じことを、僕はこの少年に強いている。
 けれどどうしてかな、そこにいっさいの罪悪感を覚えることができない。僕はどこか笑っている。守りたいと思った少年が苦しんでいるのを前に、心のどこかで微笑んでいるのだ。この少年が――世長創司郎が立花希佐の喪失に苦しんでいるすがたを見て、何かが満たされるような感覚すら。
 ――ああ、そうか。そういうことだったのか。
 おのれのすべてに合点がいった。途端、僕はソファを立ち上がり、世長のとなりに移動する。僕の気配を感じて怯える彼を制するように抱きしめ、彼の耳元でささやいた。……まるで、悪魔のように。
「でも、立花には織巻がいるだろ。あの二人は仲睦まじく手を取り合って生きていくのに、どうして君はひとりぼっちであの子のそばにいようと思うの?」
「だ……だって、僕はずっと、希佐ちゃんのことが好きだから――あの子のためになりたくて」
「ねえ、世長。僕はね、君のことが好きなんだ。好きで好きでたまらない……いっそ狂おしいとすら思うほど」
 世長の双眸が見開かれる。せんぱい、と紡ぐ声は涙が混じるようでいて、また後ろ暗い充足感が募った。
「わかってる。君が立花を大切に想っているのも、あの子のことが大好きで仕方ないのも」
「あ――じゃ、じゃあ」
「君の一番は立花のままでいい。……僕を、その次に置いてくれたら。僕も君のためになりたいし、君のそばにいたいんだ」
 僕と、二番手の恋しようか。
 世長の返事を聞く前に、僕は呆気にとられて無防備なままの、幼気なくちびるを奪った。

 
20210428