02

「すッ――すみませんでした!!」
 翌朝、土下座でもしそうな勢いでやってきたのは案の定、世長創司郎だ。
 穏やかなノックの音に騙された――と言っては語弊があるが、ドアを開けた瞬間に世長は風切音が聞こえん速さで僕に頭を下げてきた。元気そうといえば元気そうなので少し安心したような気もするけれど、なんだか悪い方向に元気になってしまったようにも見える。
 いつも少し上にあるはずの世長の頭が――普段あまり縁のないつむじが見えてしまうあたり、いわゆる45度の角度で腰を曲げていることが窺える。こんなところにまで真面目さを出してくるなんて、なんとまあ生きづらそうな子だろうか。
 僕が何も言わずに呆気にとられたことも、やはり世長は悪い意味でとらえてしまったようで。おそるおそる、といった具合で上げた顔をみるみるうちに真っ青にして、ひぃ、と小さな声をあげる。
「あ、あの……ッすみません、本当に、謝罪が遅れてしまったことも重ねて謝ります、あのッ」
「世長――」
「ど、ど、ど、どうしたらいいですか!? えっと、こういうときは指を詰めて……いや、それは極道とかのケジメのつけ方で、ええと、」
「落ちついて。ほら」
「あいたっ」
 無駄に口を働かせる世長を黙らせるため、ぺちんと軽くデコピンしてやる。おろおろと落ちつかなかった顔をきゅっと搾り、軽く涙目になりながら額を押さえる様子は可愛らしく映った。
 落ちついた? と僕が問うと、世長は少しばかり不服そうな顔をしつつも小さくうなずいて見せた。
「……まあ、とりあえず入りなよ。ここだと人目もあるし、誰かに聞かれたら困るでしょ」
「うっ……は、はい。失礼します」
 77期生の部屋が集まるこんなところで立花への気持ちがどうだの自分のことが何だのと話し込んでみろ、白田の耳に入った日には何が起こるかわからない。あの男はひどく察しがいいし視野も広く、その傾向は級長を継いでから尚さら強くなったのだ。僕たちの怪しい行動のせいであれやこれやと秘密がバレ、せっかくの立花たちの努力を水泡に帰す羽目になってしまうかもしれない。
 世長は元来賢い人間であるので、おそらくみなまで言わずとも僕の考えを理解してくれたのだろう。おずおずと部屋に踏み入る彼を半ば無理やり押し込んで、電子音と共に施錠をする。とりあえずはこれで安全だ。
「すっきりした?」
「え……?」
「昨日泣いたろ。それで、君はすっきりしたの? どうなの」
 邪魔も懸念もないのなら、単刀直入そのままに会話を始めるのが吉だ。そのほうが無駄な労力を使わずに済むし、彼のように考えをこねくりまわしてしまうタイプはまどろっこしくていけないから。
 ソファの上に世長を誘うかたわらで、僕はオブラートを破り捨てながらまっすぐに問う。ストレートすぎる質問にいささか怖じたふうだった世長は、けれどもやはり考え込んで、答えを探しているようだった。伏し目がちに思案をめぐらす彼の正面に腰かけてやり、僕はひたすら言葉を待つ。今日が土曜であるおかげで時間はそれなりに余裕があるから。
「正直に言うと……わかりません。今でも希佐ちゃんたちを見るとつらいし、雛杉先輩に迷惑をかけてしまった、という気持ちも強くて」
「気にしなくていいのに」
「わかってます。僕を悩ませたくて手を差し伸べてくれたわけじゃないってこと、よくわかってるはずなのに。それでもやっぱり気になっちゃって……」
「難儀な性格してるよね、世長」
「言葉もないです。ただ……そうだな、少しだけ安心してるかも。こんなことを言ったら、それこそ先輩のご迷惑になるかもしれないんですけど……その、味方がいるって、思えたから」
 淋しくないし、怖くもない。なんとなく、息がしやすくなったような気がします。
 伏していた目を知らぬ間にこちらに向けていた世長は、何か確信めいた様子でそう告げる。昨日の情緒を最大限乱したさまとは裏腹に、本来の思慮深く落ちついた振る舞いができているように思えた。やはり人間、定期的にガスを抜かないと生きていけないようだ。
 今の彼が何を思っているのかはわからないが……それでも、世長の言葉によって僕自身がひどく安心しているように感じられた。心の奥がふっと軽くなったような、誰かに許されたような気分になる。
 やはり、どうしようもなく重ねているのだろう。一人きりですべてを抱えずにいられなかった世長に、ずっとずっと傷だらけなまま、ズタズタになった過去の自分を。
「あ、――」
 刹那、世長が僕を見ながら大きく目を見開いた。
 どうしたの、と首を傾げるもうろうろと視線を彷徨わせるばかりでそれらしい答えは返ってきやしない。ええと、その、と何度も言葉を選ぶ様子にさすがに少し苛立ってしまい、半ば睨めつけるような気持ちで見つめ続け、やっと言葉らしい言葉を吐かせることに成功した。そういうところはやはり織巻を見習えと思う。
「その……少しだけ、びっくりしました。雛杉先輩、舞台以外でもそんなふうに笑うんですね」
「ん……あれ、笑ってた?」
「はい。とても、優しい顔をしてましたよ」
 ぺた、と自分の頬を触ってみる。何の変哲もなく……というか、ほぼ無意識のうちに笑ってしまっていたようで。これがいわゆる心からの笑みというやつなのだろうか、少しだけ気恥ずかしい気持ちになってしまう。僕もまだこんなふうに笑えるらしい。
 何度も自分の頬を撫でながら、ふとユニヴェールに入ったばかりのときのことを思い出した。あの頃は稽古のたびに表情筋が筋肉痛になっていて、自分の顔はそこまで動いていなかったのかと愕然としたものだから。アンサンブルでこれなのだ、いつかもっと前に出る日が来たらこの顔はどうなってしまうんだろうと、今の自分なら適当に撥ねつけてしまうような疑問すら浮かんでいた記憶がある。
「あ……先輩、また笑って」
「ん……ふふ、君と話していて、少し昔のことを思い出したんだ。思い出し笑いってやつかな」
「昔のこと……ですか?」
「そう。……そうだ、昔ついでに教えてあげるよ。どうして僕がユニヴェールに入ろうと思ったのか」
 僕ばかり君を知るのは不公平だろう――そう言うと、世長は興味を隠し切れない目で僕のことを見つめてくる。……正直、とてもいい顔だ。
「校長先生と江西先生くらいしか知らないことだと思う。……僕はね、高科先輩目当てでこの学校に入ったんだ」

 
20210421