01

スズ√固定の話、来年度くらいの設定

 木陰に隠れてうなだれる後ろ姿に、なんとなくの覚えがあった。
 しっかり立っているのにどこか儚げで膝を抱えているようでもあるその背中は、僕のなかに今まで感じたことのない衝動を呼び起こす。考えるより先に体が動き、つい声をかけてしまった。
 さく、さく、さく。芝生を踏み鳴らす音にも気づかないほど落ち込んだその人影は、僕がすぐそばまで近づいても、やはり何も反応しなかった。
「振られたの?」
 途端、弾かれるように顔を上げたのは一期後輩の世長創司郎だ。
 彼はひどく真面目で、勉強熱心で、どうしても考えすぎるきらいがある。将来的に胃薬を常備する羽目になるのではないかと、そんな懸念すら浮かんでくるほどこの男は生真面目だった。
 もちろんそれこそが彼の持ち味であり長所であるのだけれど、ただこのユニヴェールにおいて……そして、あの織巻寿々と並び立つ男としては、ともすると欠点としての側面が大きくなってしまうかもしれない。世長創司郎は、そんな危うすぎるバランスの上に立っているような男だった。
「雛杉先輩……」
 弱々しく僕の名を呼ぶ声は、誰が聞いても憔悴や落胆を感じ取ってしまうものだろう。無論その消沈具合について責めるつもりは露ほどもなく、むしろあの場所、あの環境で精いっぱい隠し通していることを賞賛したいくらいであった。
 彼の駆け込んだ木陰の下、誘われるように肩を並べても世長は僕を追い払わない。それすら出来ぬほど疲れ果てているのか、もしくは何か別の要因があるのか……探るような僕の目を世長は静かに見つめ、そしてゆっくり、迷うように逸らす。
 言葉を探しているのだろうか――思慮深い世長のやりそうなことだ。こんなときくらいありのまま、衝動のままに吐き捨ててしまえばいいのに。
「……振られたって、誰にですか」
 考えて考えて考え抜いて、なんとか吐き出せたらしい一言は――幼い子どもの虚勢と相違ない、哀れな強がりそのものだった。
「誰、って。立花以外に誰がいる?」
「うっ……」
「ああ、もしかして織巻?」
「気持ち悪いこと言わないでください……」
 軟弱なカウンターに意味はない。へろへろの右ストレートを片手で弾き返してやると、世長は再び足元を見つめ、唸りながら言葉を発す。
「別に、明確に振られたとかそういうのじゃありませんから。まだまだ僕にもチャンスはあるはずです」
「キルツェのラストを――いや、あんなに仲良しこよしな二人を見ていてもそんなことが言えるなんて、世長は意外と骨があるな」
「……先輩、もしかして僕の傷口に塩を塗りに来たんですか?」
 恨めしそうな声色は、さっきよりもミリほどであるが元気を取り戻したように思う。否、おそらくはただの見栄であって、守りに入っているのだろう。
 ……覚えがある。覚えがあるのだ。人から差し伸べられる手がすべて癪に障って、誰にも近寄られたくない、けれど撥ねつけるのも怖いから身を丸めてひたすら自分を守るしかない、弱々しい抵抗に。そのままどうするべきかの答えすら見失い、やがてたった一人、断崖に立たされたような気持ちにまで陥ってしまうのに。
 だからこそ目が離せない。だから、僕はここへ来た。
 こんなことを言っては怒られてしまうけれど……僕はきっと、今の世長に過去の自分の面影を見ているのだと思う。
「つらそう。仲良し三人組として、あの二人の仲を一番近くで見なくちゃいけないの」
 ぐ、と隣で言葉につまった気配がする。案の定世長は何も言わなくなってしまい、か細い息の吐き出される音だけが聞こえてきた。気まずいだけの静寂がこの一帯を支配して、渡り廊下を通る生徒の会話も耳に入らないほど。
 僕の呼吸音も世長に聞こえているのだろうか。深呼吸じみた空気の入れ替えは、もしかするといらぬプレッシャーを与えることになるのかもしれない。何度目かの吐息のあと、「どうして……」となんとか搾り出された世長の声は、そよ風にすらかき消されるほど小さく頼りないものだった。
「君とは少しケースが違うけど……僕にも少し覚えがあるんだ。僕も君と同じような、選ばれなかった人間だから」
 選ばれなかった人間――その単語に何か思うことがあるのだろう、世長は再び顔を上げ、今にも泣き出しそうな顔で僕のことを見る。
 今の僕はきっと、世長にとって彼ら以上につらい存在であるのだろう。たった一年、近からずの位置にいただけの人間が踏み込んでいい領域ではないことくらい、この頭も理解している。これが功なのか否かの確かな判断力も、正直なところ僕にはない。
 けれどそれ以上に危惧しているのはこれから先の世長のことだ。……僕は避けたい。まだ後戻りができる、一縷の望みを持っているはずの有望な少年が、たった一人で歪んでしまい、どうにもならなくなることを。
 自分のように歪みきってほしくない。何かを失ってほしくない――そんな老婆心めいた考えで、僕は無遠慮に、この繊細な少年の心に手を入れようとしている。
「……僕は、どうしたら」
「どう、って?」
「あなたが……雛杉先輩が、僕に何を求めているのか、わからなくて」
「ああ……」
 確かに、よく考えたら自分の真意を告げていなかったかもしれない。確信的なことは何も言わず、ただズバズバと痛いところを抉るだけの人間を前に、よくもまあこの男は暴れたりしなかったものだ。裏を返せば得体のしれない相手に感情を向ける余裕すらなかったということなのかもしれないけれど……まあ、それもそれで頷けることではあるので、別段疑問に思うことでもないか。
 世長に負けず劣らずの思考時間を使い、僕もまた口を開く。おのれを見つめ直すのはあまり得意ではないけれど、彼のために必要ならば頑張ってやろうではないか。
「……見せてほしい、のかな。君のなかにあるどうしようもない感情ってやつを、ありのまま晒してほしい」
「どうして――」
「君のことが心配だから、かも」
 僕がそう言うと、世長は端正な顔立ちを歪め、やがてこらえるように両の手で覆う。叫ぶような、けれども漏らすようでもある慟哭が、指の隙間から溢れ出た。
「……わからないんです、僕。今の自分が現状を喜んでるのか、哀しんでるのか」
「うん」
「希佐ちゃんのこと……ずっと、小さい頃から好きでした。いつも心の支えにしていて、いつも希佐ちゃんのことを考えて……あの子に会いたくて、あの子に見つけてもらいたくて、ユニヴェールに入った」
「……うん」
「でも希佐ちゃんは、気づけば僕よりもスズくんと仲良くなってて――正直、悔しくて苦しくてたまらない。近くで見ていると気が狂いそうになるし、フギオーのように今すぐ奪ってどこかに行ってしまいたいとか、そんなことまで考えてしまう。けどそれじゃあ希佐ちゃんのためにならないし、スズくんのそばで幸せそうに笑う彼女を見ながら、良かったねって安心している自分もいるんです」
「…………」
「僕は……僕は、まだ諦めたくない。ジャックエースも、希佐ちゃんの隣も。でも心のどこかで『もう無理だ』って諦めてる自分もいて、それがほんとうにいやで」
「世長――」
「たまに、何もかもが嫌になって……もう、全部投げ出して、死んでしまいたくなる……!」
 嗚咽とともにあふれた濁流。それは、年端もいかぬ少年の心をぐちゃぐちゃにかき乱している、怪物のような感情だった。
「僕が……ッ僕が先に好きだったのに! 僕のほうが何倍も希佐ちゃんのことが好きだ。スズくんみたいなぽっと出の男より何倍も、何十倍も希佐ちゃんのことを考えてたのに!」
「…………」
「でも、悔しいな……僕にはスズくんのような真似はできない。倒れてきたステージから庇うことも、希佐ちゃんと二人で並び立って、世長立花ペアなんて噂されることも夢のまた夢だ! 誰にも見つけてもらえない……僕は、誰にも選んでもらえない……ッ!」
「世長、待って」
「僕は……僕には、希佐ちゃんがいないと――」
 刹那。世長は体をぐにゃりと曲げて、芝生に突っ伏すように泣き叫ぶ。人通りの少ない校舎裏であるおかげで人目につきにくくはあるだろうが……まあ、腐ってもここはユニヴェールだ。世長にはフィガロの件もあるし、演技指導と言ってしまえばなんとか守ってやれるだろう。
 突っ伏したまま、体を丸めて震える世長の背中を撫でてやる。薄い、けれどしっかりした少年のそれだ。この背中にどれだけの膿を溜め込んでいたのだろう。痛々しいその背中に手のひらを這わすたび、僕はもっとはやく声をかけていればよかった、と後悔の念に苛まれる。
「泣くな」とは言わない。ただひたすら膿を出して、その視界を狭めている悪いものをすべて吐き出してしまえばいい。
 その先にあるのが自己嫌悪ではなく、晴れやかな希望であることを願いながら――僕はただ、日が陰って夕暮れに飲まれるそのときまで、世長の心に触れていた。

 
20210416