「そういえば玉村、お前、下の名前は何というんだ?」
それはひどく突然で、しかし、ごもっともな問いかけだった。
彼とともに学級委員の仕事をこなすようになって、二週間目の放課後のことである。私たちは先生に言われ、とある資料を教室から職員室まで運ぶ道中であった。人もまばらな廊下には、大きくてハキハキした彼の声がよく通る。
彼は――天馬司は、星を落とし込んだような瞳で私のことをじっと見つめている。夕陽が映りこんだそれは目を焼くほどにきらめいて見えて、正直、少しだけ居心地が悪かった。
……私は、そんなにまっすぐ見てもらえるほど、真っ当で清らかな人間ではないから。
「別に……そんなの、名簿でも見て確かめればいいじゃない」
「確認はしたのだが、ふりがなが振られてなくてな。お前は親しい友人にも名字で呼ばれているようだったから、確かめようもなかったんだ」
「じゃあ、みんなに聞いてみれば……」
「お前が目の前にいるというのに、わざわざそんなまどろっこしいことやってられるか! それにこれはオレのワガママなのだから、下手に周りを巻き込むわけにもいかないだろう。無用な心配をかけてしまうかもしれん」
「……まあ、それはそうだけどさ。そもそも、天馬もみんなと同じように名字で呼べば済む話じゃない」
「何を言う! オレとお前はクラスメイト、そして何より同じ学級委員じゃあないか! 今年一年、ずっと一緒に作業をこなしていく相手の名前も知らないなんて、未来のスターにあるまじき失態だとは思わないか?」
「そんなもんなの……?」
「そんなものだ。それに――」
ダンボール箱を運んでいた足を止め、天馬は半ば芝居がかったような動きで、ゆっくりと私のほうを見る。射し込む夕陽も相まって、一連の動作はまるで何かのショーのように思われた。
両手に抱えたダンボール箱は私がひとつ、天馬がふたつ。男の自分が多めに持つのは当たり前だろう、とさも当然のように私の負担は減らされた。
いつもバイトで力仕事してるから、そんなに気を遣わなくてもいいのに――その言葉は、優しく細められた彼の瞳によって、とうとう出てこれずじまいだった。
「とても綺麗な名前なんだ。どういった読み方をして、どんな想いが込められているか、知りたいと思うのは当然じゃないか?」
天馬は笑った。いつもの自信満々といったそれではなく、ひどく優しい顔をして。
……私は、自分の名前がきらいだった。そもそもとして読みづらいし、名前負けだの似合わないだのと、口には出さなくともみんなそう思っているはずだ。
私のように地味で目立たない女にこんなきらびやかな名前をつけて、いったい両親はどういうつもりだったのだろう。兄はそれほど奇抜な名前ではないのに、どうして私だけ、こんな。
私が自己紹介をするとだいたいみんなざわつくし、くすくすと笑うやつも少なくない。思い出せる限りでは小学生の頃からずっとそんなふうだったので、忌々しい経験が積み重なった結果、私は自然と下の名前を名乗る機会を減らしていた。
いま仲良くしてくれている友人たちはそのあたりの事情を理解してくれているから、あえて「玉村」だとか「たまちゃん」だとか、名字やあだ名で呼んでくれているのだ。
「き、きれいって……天馬、本当にそう思ってんの?」
「なんだ、こんなところでお世辞を言うわけがないだろう? 全身全霊、心からの本音だ!」
……初めてだった。こんなふうに、真っ向から名前を褒めてもらったのは。特に男の子なんてからかうことを生きがいのように、メガネでうつむきがちの私を指差して笑うようなやつらばかりだったから。
でも、天馬は違うんだな。気づけば自分や妹さんの名前がどれだけ素晴らしく、どのような意味を込めて名づけられたのか、という話にまで発展しているが、正直あまり気にならなかった。少しだけ……本当に少しだけ、気分が良かったからかもしれない。
ゆっくりと、口を開く。こうして人前で名乗ったのは、果たしていつぶりだろうな。
「――、って、いう」
「うん?」
「輝夜で、――、って読むの。たまむら――」
「おお!」
私がそう言うと、天馬はひどく満足げに、まるでおもちゃ箱を開いた子供のごとく、すっかり顔を明るくした。そのままそうか、そうかと何度も頷いて反芻するような様子を見せ、恥ずかしさに早足で歩きだしてしまった私を、楽しげに追いかけてきている。
顔を見なくてもわかってしまった。今の彼が、ひどく機嫌をよくしていると。
「待ってくれ、輝夜。あんまり急ぐと転んでしまって危ないぞ」
「う、うるさいな……! っていうかなに、いきなり呼び捨てなんて馴れ馴れしいんだけど!?」
「そう言うな。むしろ、オレという未来のスターに名前を呼んでもらえることを光栄に思え! ……いや、しかし、かぐやか。うん、やはり読み方も美しいな。素敵な名前じゃないか」
「う……!」
いやにご機嫌な天馬の足取りは、結局職員室にたどり着くまで、続いてしまったのだった。
2021/12/06
2022/09/01 加筆修正