メリーメリー、クリスマス

 バウタウンにあるシーフードレストラン防波亭は、オールシーズンどこをとっても賑わうような人気の店だ。
 かつてジムチャレンジ真っ只中だった頃に素通りしたこの店へ、よもや今頃になって訪れることになるとは果たして誰が予想しただろうか。潮の香り漂うこの街で、採れたての新鮮な魚介類を食べられるという謳い文句が伊達じゃないことをぼくは今日初めて知ることが出来た、その事実は素直に喜ばしいと思う。しかもわざわざ予約まで取って、愛おしい彼女と二人っきり――店員や他の客もいるので厳密にはそうでもないが――で食事を取る、その幸運と感謝を全身の肌で感じていた。
 今日という日に似つかわしいBGMと談笑の声、食器の音が混ざりあいつつもしっとりとしたムードを作るこの店内。雰囲気にあてられたのか否か、それとも別の要因があるのか、ぼくの目の前に座るマリィは普段より何倍も愛らしくこの目に映っている。
 いつもよりおめかしをした彼女はどこか気恥ずかしそうに、けれどもひどく嬉しそうに頬を緩めて食事を口に運んでいた。もちろん思い切り破顔している……というわけではないのだが、いつものクールな表情の隙間から漏れるものがあるのである。ぼくやネズ、それからマサルたち同期の子たちならこの変化もわかるのではないだろうか? 付き合いの浅い子供たちにまで知れているのは少し複雑な気持ちだけれど、マリィに友人が増えるのは良いことであるし、そもそも兄や恋人という存在は相手の交友関係にまで口を出すべきではないのだ。
 ぼくがじっと彼女を見つめているからなのか、マリィはほんのりと頬を染めながら伏し目がちに食器を操る。フォークやスプーンを招くために開く唇の、その向こう側にある真っ赤な舌を目に入れるたび、ぼくは言いようのない感情を腹の奥に感じていた。否、きっとそれは言ってしまえば性欲、もしくはある種の食欲と例えて問題ないものであるのだけれど、一応ぼくもそれなりに理性のある男であるがゆえ、さすがにこの衝動をそのまま口に出すことは憚られた。そのまま、というか、たとえ婉曲させたとてそうそう言うべきことではない。
 何より今日はクリスマスイブだ。恋人たちが甘ったるい空気に身を置く今日という日に、おそらくマリィだって理想を抱いているはずである。だからこうして二人でデートに勤しんでいるわけだし、つまりせっかくの彼女の情緒を阻害することなどしたくはない。彼女が今日にどれだけの熱意を持っていたのかと言われたら、それは邪魔をするたびこっぴどく叱られて、遂にはモンスターボールから出してもらえなくなったモルペコを見ればわかること。
 帰ったら思いっきり遊んであげるけん、今だけは本当に大人しくしとって――あのときのマリィの据わった目は、かつてにぼくを叱ったネズの瞳とよく似ていた。

 
 ぼくが思考をあっちこっちさせながら顎を動かし、数年越しに味わった料理へ舌鼓を打っていると、文字通りあっという間にディナーの時間は過ぎてしまった。テーブルに向き合ったままポツポツと会話を重ね、どちらともなく席を立ってレジのほうへと歩いていく。会計のとき、財布を取る指が一瞬触れてしまったマリィへのクリスマスプレゼントを思い、渡せないままのおのれの意気地のなさに思わず自嘲をしてしまったが。

「ラベンダーさん、これ本当に美味しかった。また連れてきてね」

 そう言って微笑むマリィの顔は、月並みな表現ではあれどこのバウタウンを彩るどんなイルミネーションよりも、遠く広がる夜景よりも美しくぼくの心に刻まれる。衝動的に抱き寄せそうな腕をなんとか律し、そのまま手を引いてバウタウン外れの灯台までやってきた。ここはカップル御用達のいわゆるデートスポットで、今日ばかりはチョンチーたちの照らす水面が、たかるような恋人たちを祝福しているようでもある。

「ねえ、ラベンダーさん。来年もこんなふうにデートしてくれる?」
「もちろん。……なんて、マリィがぼくに愛想を尽かさなければ、だけどね」
「えー、あたし次第なん? ……そっか、じゃあ心配ないね」

 くすくすと笑ってみせるマリィは、昨日の彼女より幾分か大人びているように見えた。
 当然というかなんというか、灯台近くはおそらくカップルと思しき人間たちで溢れかえっている。いつもの五倍、むしろ十倍と言っても差し支えないほどの人混みを見るに、やはり考えることはみな同じなのだと突きつけられたような気分になった。どうせなら人気のない穴場に足を運べばよかったか。
 新進気鋭のジムリーダー、加えてスパイクタウンのアイドルであるマリィがこんなところにいてもいいものなのかとも思ったが――マリィ本人はあまり気にしていないようであるし、そもそもスパイクタウンの面々にぼくたちの仲は周知であるので、まあ今さら何を気遣うこともないか。
 周囲には測ったように等間隔で連れ立つカップルたちばかり。寄り添いあう彼らのなかへそっと混じり、ぼくは細く脆いマリィの肩を抱き寄せる。ラベンダーさん、慌てたように小さく声をあげるマリィを無視するようにして、寄りかかっていたフェンスから彼女の体をぐいと離した。

「永遠なんてものを誓うつもりはないけどね。でもぼくは、マリィが望みさえすれば一生の愛を注いであげられるよ」

 ちょっとクサかったかな、と言うとマリィは首を振ってぼくに体を預けてくる。
 ――ありがとね、ラベンダーさん。そう小さくこぼしながらぼくの胸におでこをくっつけて、マリィはそのまま動かなくなった。幼い体をぎゅうと両腕に閉じ込めてやり、そうしてぼくはこの体温を全身で感じるように呼吸をする。
 みゃあ、と遠くに聴こえるのはキャモメのなきごえであろうか。こんな時間に鳴くだなんて空気の読めないポケモンもいたもんだ、未だ大人しくボールに収まったままのモルペコを見習ってほしい。
 夜景の向こうにいるキャモメは数羽で群れをなしているようで、よおく目を凝らすと月光を反射して羽根がきらめくのが見える。その反射光が今のぼくにはひどく目障りで、マリィの死角にある今なら撃ち落としても構わないだろうか――なんて物騒な考えが頭を過ぎり、女の子はああいうものも好きだろうからと思い直して首を振る。
 ぼくも少しは変わらなければ。可愛いマリィをきちんと喜ばせてあげられるように、それなりに真っ当な人間の皮を被っておきたいのだ。
 刹那、腕のなかで身動ぎしたマリィがくしゅんと可愛らしいくしゃみをする。ずび、と鼻をすすりながら聴こえる「ごめんなさい、はずかしか」の言葉があまりにも愛くるしくて、ぼくは思わず吹き出してしまった。
 くすくすと笑うぼくに周りの視線も集まってきた頃、笑わんといてと胸を叩いていたマリィが小さく唸りだす。せっかくのムードをぶち壊してしまったのが悔しかったのか悲しかったのか、日頃にはあまり見えない姿に微笑ましさが募っていった。
 けれども可愛いものは可愛いのだから仕方ないのだ。ごめんね、と謝って許してもらえるのかはわからないが、この子は兄に似て切り替えが早いので話をそらせば済む話だ。

「もう遅いし、そろそろ帰ろうか。そらとぶタクシーを呼んで……ああ、ちゃんと家まで送っていくから安心してね」
「うん……その、送るだけ?」
「え? ……ああ、そうか。今日もネズはライブで留守か……」

 手を繋いで歩き出し、淋しいの? と訊ねてみる。案の定マリィはこくんと小さく頷いて、家に一人は嫌だと言った。
 ぼくだってマリィをたった一人で置いておくなんて嫌だけれど、しかしこんな日に彼女の家で二人きりという状況は回避したい。彼女は愛しい恋人でもあり、無二の親友の妹でもあるのだ。彼が大事にしている妹へ不貞を強いるわけにはいかないし、信頼を失うようなこともしたくない。なので出来れば危ういシーンは避けて通りたいところである。
 マリィのことを大事にしたいぼくと、ネズの信頼を裏切りたくないぼく。ぼくのなかの二人は結託している。

「でもさ、ラベンダーさんが変なことしなかったら、あとはもー、何にも問題ないけんね」

 しかしそんなぼくの考えをよそに、マリィの口から出てくるのは修羅の道へのガイドのような言葉なのであった。
 くしゃ、と微かな音を立てたポケットのなかの小袋が、おのれを開放するのは今ではないと告げている。

 
2020/12/24