優しくおだやかなあの声で、名前を呼ばれるのが好きだった。
元々のあたしは、どうやら自分の名前が好きではないらしかった。記憶喪失ゆえに何の理由があってそうなったのかはいっさいわからないけれど、でも、おのれの名前に――今となってはほぼ唯一なくさなかった記憶なのだけれど――言いようのない嫌悪感があったことを、まるで魂にでも刻みつけられたかのような、はっきりとした感覚として理解している。
唯一の記憶を何よりも厭うていたなんて、あたしはやはりあまのじゃくというかちぐはぐというか、どうにも生きづらい性分のようであった。
とはいえ、その不快感も最近はすっかり消え失せていた。ヒスイに降り立ってすぐ、文字通り右も左もわからないときにセキさんが名前を褒めてくれたことを大きなきっかけとして、その後はセキさんはもちろん、ヨネさんやテルくんなどなど、みんなに名前を呼ばれるたび、あたしは自分の名前を少しずつ受け入れられるようになっていった。
とくにあたしの心を揺り動かすのは、他でもないセキさんの声だ。彼は事あるごとにあたしの名前を呼んでくれる。何かあったらヨヒラ、ヨヒラと、コトブキムラに行くときはだいたい一緒に連れて行ってくれたし、集落にいるときだって、あたしは度々セキさんの後ろをついてまわっていた。
あの大きな背中は、いつもあたしを守ってくれる。弱くて役立たずなあたしをすっかり覆い隠すほどのそれでもって、とてもおだやかに――そして、愛をもってあたしの名前を呼んでくれるのだ。
まるで、愛おしさのすべてを「ヨヒラ」という三文字に込めてくれているような――そんな実感を、あたしはここしばらくでずっと、ずうっと感じ続けている。
だからあたしも同じように、この気持ちのすべてを込めて彼の名前を呼ぶのだ。言葉にするにはあまりにも重く複雑なこの想いを、どうにか彼に伝えるために。セキさんの広い背中なんて簡単に覆ってしまえるほどの、怪物にも似た恋慕が、せめて彼を苦しめないかたちで伝わるように。
そうして、あたしに名前を呼ばれたセキさんが愛おしそうに目を細めながら振り返る、その所作を見るたび、あたしはひどく救われたような気分になるのだった。
2022/11/30