冬枯れの花嫁

「公子様は、あの娘が恐ろしくないのですか」

 そう持ちかけてきたのは、先日共に仕事をしたデットエージェントの一人、ラヴィルだ。北国銀行の近く、俺が一人で黄昏れているところを見計らって話しかけてきたあたり、どうやら至極真面目かつ、大きな声では言えないような話なのだろう。
 ラヴィルは仮面の向こうにある碧眼を何度もしばたたかせながら、おそるおそるといった調子で俺に話しかけてくる。

「あの娘って、もしかしてミラのこと?」
「……ご気分を害してしまったら申し訳ないのですが、私はあの娘が恐ろしくて仕方ないのです」
「あんなにかわいいのに」
「は……はあ。しかし我々には、まるで『不吉』の象徴のように映ります」

 ラヴィルは続けた。ミラが目の前に現れるたび、言いようのない不安感に襲われてしまうのだと。それはまるで、空っぽのバケツを持った女に出くわしたあと、忘れ物をして家に戻ったとき鏡を見るのを忘れたうえ、テーブルの上に空き瓶を置きっぱなしにしていたかのような、避けようのない恐怖心なのだと言う。
 ……正直なところ、どれだけ熱弁されても俺にはちっとも響かない。彼女にたいして恐怖心など抱いたことがないからだ。俺にとってのミラはキャンキャン吠える野良犬で、やっと懐いてきたくらいの、かわいい盛りでしかないのである。

「……それ、他の人にも訊いてみた?」
「もちろんです。ナディヤやヴラドにも確認いたしましたが、みな私と同じ意見でございました」
「ふぅん……」

 複数人から同じ意見が出ているのならば、ラヴィル個人の勘違いとして片づけるような案件ではないのかもしれない。いささか不本意ではあるが、少しは頭に入れておく必要がありそうだ。
 俺がしばらく考え込んでいると、ふと誰かが階段を登ってくる気配がした。噂をすればなんとやら、欄干越しに声をかけてやれば、気配の主はほんの一瞬顔を明るくしたように見えた。
 気配の主――ミラのすがたを確認した途端、ラヴィルのまとう空気が一瞬で張りつめる。俺たち「執行官」を前にしたときとは異なる空気感を見るに、発言の信憑性を感じられた。

「おかえり、ミラ――って、」

 しかし、どこか弾むような足取りの彼女とは裏腹に、俺の心はにわかにざわついた。気分転換から戻ってきたミラの様相が、見送ったときとはいささか異なっていたからだ。
 つい先日贈ったばかりの漆黒のワンピースの裾が、無残にも破けてしまっている。手足にはいくつか擦り傷が散見し、尋ねずとも何かしらのトラブルに巻き込まれたことは明白だ。
 俺の視線で何かを感じ取ったのか、ミラは口を尖らせながら事のあらましを説明してくれる。

「宝盗団に襲われた。ちょっと郊外に出ただけなのに、何人かに取り囲まれて……」
「それで、大丈夫だった?」
「とーぜん。みんな伸してやったよ。……ふん、あんなやつらへでもないし」

 ぷい、と顔を背けながら言うミラは、かつてのか弱い少女の面影などほとんど感じさせなかった。あの頃は宝盗団相手に手も足も出なかったのに、よもや彼ら複数人を相手にして、軽くあしらってしまえるほどになるとは。
 彼女の成長を目の当たりにして、場違いにもどこか誇らしい気分になる。
 ――そろそろ、いい頃合いだろうか。俺はかねてより考えていたことを伝えるため、ミラの手を引いて旅館への帰路をたどる。ラヴィルは相変わらず不安げな様子だったが、彼にはまた今度詳しく話を聞くことにしよう。

「ねえ、ミラ。俺さ、そろそろスネージナヤに帰ろうと思うんだ」
「スネージナヤって……タルタリヤの故郷?」
「そう。スネージナヤパレスに戻って、やらなきゃいけないことがあるし……あとは、俺の家族に君を紹介したいからね」

「家族」という単語に彼女が反応するだろうことは、薄々ながら察していた。以前ミラと家族について話したこともあるけれど、おそらく彼女はそれらについて強い思い入れがあるのだろう。

「覚えてるかい? 前に話した、俺の弟たちのこと」
「……ん。テウセルとか、トーニャとかでしょ」
「ああ。実は以前手紙に君のことを書いたんだけど、そうしたらみんな君に会いたがるようになってね――」
「は!? い、いつの間に……!」

 大慌てのミラを引き連れて、早々に旅館へと帰ってきた。宿泊している部屋へ戻ると、テーブルのうえに積まれた荷物がどんと俺たちを迎えてくれる。何を隠そうこちらはミラへの新しいプレゼントなのだけれど……当の本人は、真新しい箱を前にひどく怪訝そうな目を向けていた。――その顔が見たかったのだ。

「これはね、俺から君へのプレゼントだよ。開けてみて」

 俺が開封を促すと、ミラはおそるおそるといった様子で包みのリボンを解く。丁寧かつ可愛らしく梱包されたそのなかには、以前フォンテーヌで目をつけていた新しいドレスが入っている。
 本当ならもう少し後に贈ろうと思っていたのだけれど、タイミングとしてはちょうどいいのかもしれない。呆けたようにドレスを見つめるミラの隣に並び立ち、腕に残る擦り傷へと触れた。

「手当てしたげるから、あとで着替えておいで。……それから、これも」
「まだあるの……?」
「ハハ、もちろん。ごめんね、どうやら俺は構いたがりの贈りたがりらしいんだ」 
 
 そうして俺が取り出したのは、手のひらサイズの小箱である。今度は視線で開封を促せば、ミラは先立ってより何倍も慎重にそれを開け、すぐにちいさく声をあげた。
 小箱の真ん中に鎮座するのは、赤い水晶をあしらったピアス――そう、俺が普段身に着けているのと同じデザインのものだ。あいにくと素材の関係でまるきり同じというわけにはいかなかったが、ぱっと見では相違点なんてなかなかわからないだろう。
 そっと、ミラの右耳たぶを撫でる。昨夜噛みついたばかりのそこは、俺が軽く触れるだけですぐにほんのりと色がついた。

「まだまだ一人前とはいかないけど、少しずつ成長してるのは確かだからね。今日はそのお祝いだよ」
「う……いいの、こんなの、もらっちゃって」
「もちろん。というか、受け取ってもらえなかったら困るくらいだけど?」
「……わかった。――ありがとう」 

 ちいさくて細い体が、ぎゅ、と丸まりながらプレゼントを抱きしめている。噛みしめるような振る舞いは俺の庇護欲をやんわりと刺激して、プレゼントごと思い切り抱きしめさせた。

「プレゼント……もらうついでに、わたしからもお願いがある」
「うん? なに、俺にできること?」
「俺に、っていうか……タルタリヤじゃなきゃできないこと、かも。……わたし、ファデュイに入りたい」
「えっ――」

 予想外の提案に、思わず体を離してしまった。
 俺が飛び退いたのが不思議だったのか、ミラは口をとがらせながらこちらを見ている。ごめんね、と謝罪をしつつ話を聞くと、どうやらとっくの昔に覚悟は決まっていたらしい。

「わたし……もっと強くなって、せめてタルタリヤの足を止めないくらいになりたい。だから、タルタリヤに教えてもらうだけじゃなくて、ちゃんと組織としての経験も積んでおきたいの」
「うん……」
「それに、肩書きがあったほうが便利だと思う。そのほうが、タルタリヤと一緒にいても変な目で見られないと思うから――」

 話の腰を折るとわかっているのに、思わず抱きついてしまった。さっきからくっついたり離れたりと我ながら忙しいと思うものの、いても立ってもいられないのだから仕方がない。
 俺は、予想以上に一喜一憂を彼女に握られているのかもしれない。……嬉しかったのだ。他国の人間がファデュイに入るなんて決意を固めるのはきっとひどく覚悟がいることで、その表れを今ここで示してくれたことが、たまらない喜びをつれてきている。
 あの日、心の隅に巣食いはじめた罪悪感を、他でもないミラ自身がぬぐい去ってくれるとは夢にも思っていなかった。
 抱きついたきり黙ったままの俺を訝しんだミラが、腕のなかでもぞもぞと体を揺らしている。俺はそっと体を離し、改めてまっすぐ堅氷の瞳を見つめた。師匠として、確認しておかねばならないことがあるから。

「ファデュイは、君が思ってるより何倍もキツい場所だよ。君は他国の人間だし、俺の訓練なんか比べ物にならないくらいしごかれるかもしれない。何をやらされるかわかったもんじゃないしね」
「そんなの覚悟のうえだし」
「あとは……うーん、そうだなあ。研修中は俺と会える機会もぐっと減るだろうし、たとえば余裕のない人たちにいじめられるかも――」
「もう! なんなの、タルタリヤはわたしに、ファデュイに入ってほしくないの!?」

 耐えかねたらしいミラにそう言われて、思わず口をつぐんでしまった。どうやら今の俺は彼女を教え導く師匠などではなく、情けなくもへたれた男――もしくは、ただの「お兄ちゃん」でしかないのかもしれない。

「……心配なんだよ。俺の目の届かないところでひどい目にあわされるんじゃないかって」
「過保護すぎ……」
「いいだろ、それくらい大切だってことだよ」
「うっ……い、今はそういう話をしてるわけじゃないし!」

 気持ちをまるっと伝えてやれば、まんざらでもないふうに頬を染めるとわかっている。もちろんこれらがその場しのぎの出まかせなんてことはなく、いっさいが俺の本心だ。ミラもそれがわかっているからこそ、こうして素直な反応を見せてくれているのだろうけれど――

「とにかく、君をファデュイに入れるかどうかは少し保留にしておくとして……ただ、その気持ちはとても嬉しいよ。ちゃんと前向きに検討するから」
「どうだか……」
「アハハ、相変わらず信用がないみたいだね。……まあいいさ、今はそれより大事なことがある」

 言いながら、俺は再びミラの手をとる。このところの訓練によって手の皮は随分と厚くなり、ところどころにマメもできている――この手はもう、ちいさな箱のなかで守られていた温室育ちの少女のものじゃない。れっきとした一人の戦士のそれだ。

「俺と一緒に、スネージナヤまで来てくれるよね?」

 なんてことない誘い文句のはずなのに、やけに喉が渇くのはなぜだろう――もしかすると、この何気ないやり取りのなかに俺自身も気づかないような意図が見え隠れしているせいかもしれない。
 俺は、再び少女の運命を握る。

「……当たり前じゃん。どこまでもついてくって決めてるんだから、そんな辛気臭い顔しなくても大丈夫だよ」
「俺、そんなに情けない顔してる?」
「今まで見たことがないくらいにはね」

 くふくふと笑いながら、ミラはもう一度プレゼントを抱きしめてくるりとその身を翻す。その後ろ姿にフォンテーヌで初めてショッピングしたときの面影が重なり、思わず目を眇めてしまった。

「着替えてくるから、待ってて。ちゃんと帰ってくる」

 そうして別室へ消えて行った背中を、俺は肩をすくめながら見送った。未だざわついたままの胸に、確かな期待と喜びを秘めながら。

 
こちらで一旦完結です。おつきあいくださってありがとうこざいました!
2024/09/26