高下駄の呼び声を聞く頃に

 高下駄の音が鳴り響く頃、山林はまるで耳を澄ますかのように、つかの間の静寂を取り戻す。
 時刻は深夜零時をまわった頃合いだ。懐かしい客人のすがたを目にして、木々たちも心なしか喜んでいるふうに見える。
 しかし、彼女の訪れに沸き立つ野山とは打って変わって、ここの主が特段変わった様子を見せることはなかった。なぜなら彼にとってこの来訪は当然のことであり、もはや習慣じみたものであったからだ。彼は気だるげに枝葉の隙間をくぐり、件の来訪者――否、帰還者をまっすぐに迎え入れた。

「おう、よく来たな、妹よ。息災なようで安心したよ」
「兄さんこそ、相変わらずで何よりだ」

 高下駄の音はにわかに収まる。彼女が――九条裟羅が、半身の出迎えを受けて、静かに足を止めたからだ。

「真面目で義理堅いお前のことだ、今日という日に帰ってこないわけはないからな」
「…………」
「ああ……それとも、俺に甘えたくてやってきたのかな。ずいぶんとお可愛らしいことで」

 物言いこそ厭味ったらしく聞こえるが、彼の表情と声色に夜の冷たさはいっさいなく、ただ妹の来訪を喜ぶ兄のそれでしかなかった。
 その証拠に、彼の手のひらはひどく優しげに裟羅の頭を撫でている。それは彼らがこの山で共に過ごしていた頃に幾度となく繰り返していた戯れで、人里で暮らす裟羅に郷愁の念を抱かせる要因のひとつでもあった。

「当然、だろう」
「うん?」
「誕生日くらい、一番最初に兄さんに会いたかったんだ。私にだって、それくらいの情は、ある」

 何度も口ごもりながら吐き出される妹の言葉を受け、木の葉をまとう天狗はひどく満足げに目を細めた。
 木々たちは再びさらさらと音を立てて、わずかに騒がしい様を見せる。それはいじらしい妹の羞恥を慰めるためかもしれないし、はたまた兄の喜びが投影されたすがたかもしれない。
 もしくは――この山が双子のことを想い、彼らの誕生の日を懐かしんだ、その表れでもあるだろうか。
 真偽は雷神すらもあずかり知らぬところだろうが、この場がひどく穏やかで静謐な空気に包まれていた、それだけは確かだった。

 
九条お誕生日おめでとう
2024/07/14