「ヨォーヨは……今、外してるのか?」
こつん、と軽い足音と共に現れた人影を一瞥するのはピンだった。見慣れた居姿に何を思ったのか、彼女は恭しい客人相手に鼻を鳴らして、珍しく無愛想に答える。
「なんじゃ桉樹、わざとらしい言い方をしおって。わざわざあの子がいないときを狙ってきたくせに」
「おっと――はは、バレちまってたか」
ピンの悪態に反応したのか、傍らの琉璃百合がかすかに揺れる。ここはピンのお気に入りの場所、璃月港の玉京台だ。
桉樹と呼ばれた少年は、どことなく手厳しいピンの物言いにもあまり響いた様子はない。彼女の態度の理由を理解しているからだろうか。
ヨォーヨはピンの大切な愛弟子だ。ゆえに、まだまだ幼気で年端も行かぬ少女をぞんざいに扱うような行為が許せないのか――もしくは単純に、腹に何かを隠したまま素知らぬふうに接してくる、その態度が気に入らないだけかもしれない。
「あなたは、ヨォーヨのことが苦手なのかい?」
単刀直入なピンの言葉が、「何か」を覆い隠したままの桉樹の腹をまっすぐに刺す。ずん、と音を立てて身を貫くようなそれは、やがて彼から包み隠さぬ本音をまろび出させるだろう。
その証拠に、桉樹はさっきまでの軽薄そうな笑みを剥がして、ほんの少しだけ、顔を曇らせた。
「べつに、苦手と思ったことはないぜ。素直に育った良い子じゃねえか。この間なんかオレにたいして『ごはんはちゃんと食べてますか』なんて、無用な心配までしてくれたくらいだしな」
「……じゃが、好意的に思っているわけでもないでしょう。ばあやにはわかるよ、あなたはわかりやすいから」
「あ、はは……まあ、そうかな。ほんのちょっと、居心地は悪いかもしれねえ――」
ピンの隣に腰を下ろし、桉樹は深く息を吐く。琉璃百合の澄んだ香りが鼻先をくすぐって、ざわつく胸が穏やかになる反面、在りし日の「彼女」――最愛の妻の笑顔がよぎったのも事実だ。
かつて軽策荘の――否、璃月の至るところに咲いていたそれは、桉樹にとって妻との思い出がたくさん詰まった、ひどく特別な花だから。
「ヨォーヨを見てるとさ、どうしても『アイツ』を思い出すんだよ。あのちょっとませたところとか、みんなに愛されてるところとか……ほんと、びっくりするくらいそっくりじゃん」
お前だってわかるだろ? そう問いかけるのは、ピンがかつて桉樹と亡き妻の間を結んだ張本人であるからだろう。
もう千年は昔の話になるが、在りし日の彼女も、ヨォーヨと同じくピンの――歌塵浪市真君の元で修行する一人の弟子だった。仙人のもとで研鑽を積むなかで桉樹と出会い、恋に落ちて、たくさんの子供や孫に囲まれ――当時の凡人にしては長い天寿を全うしたのだ。
「ヨォーヨが笑うたび、アイツがふっと過ぎっちまう。ヨォーヨは何にも悪くないのに、無邪気に笑われるとなんか、胸が痛くてさ。情けねえけど、顔を合わせるのがちょっとしんどいんだよな」
歌塵浪市真君は何も言わない。彼が返答を求めていないことを理解しているからだろう。ただ静かに彼の吐露を――弱音にも似た懺悔を聞き、そっと風に流そうとしているようにも見える。
彼女との距離感が心地よいのか、桉樹はとうとう項垂れて、深いため息を吐いた。
「オレさ――ヨォーヨのことをまっすぐ見れる気がしねえ。アイツが帰ってきてくれたのかな、なんて一瞬でも考えちまう自分が本当にやなんだ」
涙声をさらうのは、璃月の山々の隙間を縫ってやってきた爽風だ。
この場に削月築陽真君がいたらどういった反応をするだろう? 父として、もしくは友人として桉樹を叱咤するだろうか? それとも、歪な命の彼に生まれた痛みに寄り添い、静かに慰めるのだろうか?
答えなどはどこにもない。歌塵浪市真君も、桉樹自身も、それを求めてはいないから。
「なあ、ピン――オレ、どうしたらいいんだろうな」
その弱気な一言にすら、彼はいっさいの返答を欲しているようには見えなかった。
2023/06/24