冬国の香り

 わたしが璃月へやってきたのはいわゆるただの気まぐれで、それほど大した理由じゃない。
 まず、わたしはあの町から――甘くて優しい夢を見せてはそれらをすべて焼き尽くした、あの牢獄から抜け出したかっただけ。しあわせな思い出のいっさいは暴風によって吹き飛ばされて、わたしの全身は死よりも重い痛みを孕み、毎日ずっと泣いているしかできなかった。たったひとつの灯火に縋ることでなんとか保っていた生活は、どうやらわたし自身がかの灯火を消してしまったらしく、猛烈な痛みと共にあっさりと終わりを迎えてしまったから。
 自暴自棄の四文字が一番適切かもしれない。……本当はどこでもよかったんだ。稲妻でも、スメールでも、遠く離れたスネージナヤでも、もしくは深い海の底でも。母国を抜け出してしまえるなら、行き先なんて何でも良かった。だから別に、わたしはこの璃月で郷愁に浸り、思い出を辿ってはなけなしの縁に頼る、そんなしみったれた理由のために足を踏み入れたわけではなかったはずだ。
 ただひとつ思い当たるとしたら、もしかするとわたしは「わたし」を壊したかったのかもしれない。わたしは「わたし」でなくなりたかった。わたしは「わたし」を殺してしまいたかった。わたしは、他でもない「わたし」が誰よりも何よりも邪魔だった――だとすると、こうしてルーツを辿るようなこの旅路は、ある意味で思い出を辿り、なけなしの縁を頼る、そんな意味を持っていたのかもしれない。
 璃月には、朧気ながら「わたし」の欠片が残っている。それらを消してしまえば、わたしはとうとう、何かから救われるような気がしたのだ。
 
 わたしは、「わたし」にいなくなってもらいたかった。わたしなんかもういらない。「わたし」という存在がわたし自身を苦しめ、思い上がった恋の痛みがわたしの喉をゆっくりと絞めて、少しずつ息をできなくさせる。いつまでもいつまでもわたしを捕らえて、どこまでもどこまでも追いかけてくる。そんな、亡霊のような過去の「わたし」が、わたしの背中に貼りついていた。
 しあわせな人が嫌いだ。満たされた人が嫌いだ。妬ましくて、憎らしくて、笑っているやつらが全員悪魔のように見えた。忌み嫌っていた憎悪の炎がずっと胸の奥から湧いてきて、そんな彼らを見ているわたしこそが悪鬼よろしく顔を歪めていることを、わたしはずっと気づかないふりをしていた。
 あの男に――軽薄が服を着たような悪者に、気安く声をかけられるまでは。
 
「――君、もしかしてキャッツテールにいた女の子?」
 
 気さくな声がわたしの足を引き留める。背後から――否、頭上からかけられたそれはきょとんとしているようでも、何かしらの喜びを孕んでいるようでもあり、わたしは紙切れのような警戒心を奥歯に潜ませ、ゆっくりと振り返った。
 そこにいたのは見覚えがあるような、ないような……まっくらな海を思わせる瞳が印象的な、上背のある男の人が立っていた。彼は声から与えられる印象そのままの人懐っこい笑みを甘ったるい顔にまとわせて、わたしと距離を詰めてくる。
 
「俺のこと、覚えてない? 何度かキャッツテールにお邪魔したことがあるんだけど……」
「え、っと……すみません、わたし、物覚えか悪くて」
「アハハ、いいよ。謝らないで。こちらこそ急に声かけちゃってごめんね。……なんだか、あのときとずいぶん雰囲気が変わったように見えたから、つい」
 
 思い切り見上げるわたしを気遣ってか、彼は目線を合わせるように身を屈めてくれた。背の低い人間、もしくは幼い子どもと話すのに慣れているのだろうか? 嫌味のない気遣いは子ども扱いされているようで少しばかり癪に障ったが、彼の厚意を無駄にするつもりはないので、ひとまず素直に甘えてみる。
 そして、彼が姿勢を低くした途端、明るい髪を彩る物騒な仮面が目に入り――わたしは、脳の奥深くに沈めていた記憶がゆっくりと蘇るのを自覚した。
 
 いつだったか、キャッツテールがひどくざわついていたことがあった。残念ながらわたしはちょうど外に出ていて、騒ぎの元凶がキャッツテールを去るときに一瞬すれ違ったくらいなのだが……あのときは確か、あのファデュイの「執行官」がやってきただなんだと、良い意味でも悪い意味でも、しばらくみんなが盛り上がっていたんだっけ。
 言われてみれば、あのときすれ違った後ろ姿の彼と、目の前の人はよく似ている。明るいオレンジの髪だとか、おぞましい色をしたマフラーであるとか――何より、強者がまとう独特の自信。わたしとは無縁なその空気感は、璃月港の潮風に晒された肌をぴりぴりと刺激する。
 しかし、彼のような強者がそんな一瞬の巡りあわせを覚えているだなんて――それがどうにも引っかかって、わたしは怪訝な目を向ける。……どうして、というひと言は結局喉の奥から出てこなかったが、わたしの戸惑いを見透かしたような海の瞳が、ゆっくりと細められたのが見えた。
 
「正直、俺もあのときは特に何も感じなかったんだけど――今の君は違うね。『君』からは、どこか甘美で退廃的な争いの種を感じるよ」
 
 そう言って妖しく笑った彼は――執行官第十一位の「公子」タルタリヤは、その日以来、何かとわたしに構ってくるようになった。
 

 2024/06/09 加筆修正
 2023/08/23