結局許してしまったわ

 ある朝。チリがリーグ本部に顔を出すと、そこには眉間にシワを寄せてもごもごしているポピーの姿があった。
 普段朗らかに過ごしているポピーが顔をしかめているのは少し珍しいことで、彼女と親しくしているチリにそれを見過ごすことはできず、いつもどおりに近づいて、いつもどおり優しく訊ねる。
 何かあったん? と聞くと、ポピーは大きな瞳をぱちぱちと瞬かせながら、打って変わって快活なふうに物を言った。

「チリちゃん、チリちゃん……! あのね、ポピーね、すこしこまったことがあるんです……!」
「困ったこと?」
「そうなのです! じつは――」

 
 思いつくままにあれやこれやと言っていたポピーだが、要約すると「ヴィーシニャ」という名前がいささか発音しづらく、歯がゆい思いをしていると。いくらチリの発声を真似してみてもうまくいかないようで、幼いながらも日々頭を悩ませているらしい。
 言われてみれば、確かに幼子の未発達な舌で発音するには少々厳しい名前かもしれない。パルデアではあまり馴染みのない響きだし、思えば自分も慣れるのに少し苦労したな、ということをぼんやりと思い出した。
 出会ったばかりの彼女は今より何倍も無愛想で危うげな、本当にこおりをそのまま擬人化したような人間だったように思う。ちょっとした刺激で粉々に砕けて、些細な誤りによって跡形もなく消えてしまう。こうして狂おしいほどに彼女を求めてしまうのも、そういった危うさが醸し出す庇護欲のせいなのかもしれないと、場に似つかわしくない思考をめぐらせて、小さなため息と共に吐き出した。
 ほんの二年ほど前のことのはずなのに、あの頃がもはや懐かしく思えるほどの濃密な時間を過ごしてきたのかと思うと、その事実が少しだけ誇らしくて、ひどくこそばゆい。

「ポピー、おねーちゃんともっとなかよくなりたいのです。でも、おなまえをよべないポピーなんて、おねーちゃんはいやですよね」
「そんな悲観することないって。ヴィーシニャもそんな細かいこと気にしてへんよ」
「でも……チリちゃんのおよめさんなのに、このままだとポピー、おおきくなるまでおねーちゃんとなかよくなれないかも――」

 言いかけて、ポピーは再び瞳を瞬かせる。
 幼子らしく爛々とした瞳はさっきより何倍ものきらめきを発していて、まるでテラスタルを投影しているようにも思えるほどだった。

「ひらめきました! ポピー、おねーちゃんにあってきます!」
「ええっ、いきなりぃ? ……ほな、ついでにチリちゃんが用事あるって伝えてもらってもええかな?」
「わかりましたのー!」

 何か誤解を招くようなことがあったとき、すぐにこの口で説明してやれるように――そんな思いを託したメッセンジャーの小さな背中は、またたく間にすっかり見えなくなってしまった。

 
  ◇◇◇
 

 場面は変わり、今度の舞台はリーグ職員やスタッフが作業するオフィスの一角まで移る。ぽてぽてとひどく愛らしい足音は、パソコンに向かいキーボードを叩くヴィーシニャの元へ、驚くほどまっすぐに近寄ってきた。
 その拙い足音が誰から発せられるものなのかは、きっとこのポケモンリーグに関わる人間であればすぐに察せることだろう。なぜならこの場に容易く立ち入れる幼子など、たった一人を除いてはそうそういないのだから――

「どうしたの、ポピー」

 パソコンから目をそらし、数回軽くまばたきをして。オフィスチェアに座ったままのヴィーシニャは、眼下でそわそわとしているポピーのほうを振り返る。
 体調でも悪いのだろうか、ずっと俯いたままのポピーに首を傾げていると、彼女は突然顔を上げてヴィーシニャのことを見つめてきた。その頬はいつもどおり健康的なさくら色に染まっていて、先立っての疑問が杞憂であることを教えてくれたが――

「えーと、えーと! ポピー、チリちゃんにごようじをたのまれたんです! チリちゃん、およめさんにようじがあるんですって」

 ――およめさん。ポピーの発したその五文字により、ヴィーシニャの思考回路はすっかりショートしてしまった。
 たった五文字の些細なひと言による衝撃はまたたく間に全身へと広がって、ヴィーシニャの凍りついた眉間をほんの少しだけ歪ませる。頑ななそれが不躾に融解しないように、できるだけ怖がらせないように努めながら訴えるような目を向けるものの、ポピーは相変わらず爛々とした目でヴィーシニャのことを見つめるばかりだ。

「ポピー、これからおよめさんのことは“およめさん”ってよぼうとおもいます。だって、およめさんはチリちゃんのおよめさんになるんですものね!」
「そ、それは――まあ、そうなのだ、けれど」
「やっぱり! ……ふふ、ポピー、おふたりのけっこんしきとってもたのしみです!」

 きゃらきゃらと笑う無垢な幼女――そんなものを前にしては、さしものヴィーシニャだって、強く出ることはできなかった。
 オフィスチェアに座り込んだままがっくりとうなだれた彼女を見て、ポピーは可愛らしく小首をかしげるのみ。なんでもないわ、というヴィーシニャの気遣いをそのまま受け取ったのだろう、ポピーは「つたえましたよー!」とだけ言い残して、さっさとどこかへ行ってしまった。
 あの様子を見るに、おそらくチリのところへ向かったのだろう。あの二人は四天王でもひときわ仲が良く、チリは事あるごとにポピーを連れまわしているから。

「十中八九、チリも関わっているのでしょうね……」

 半ば朦朧とする意識のなか、ポピーが伝えに来た用件を思い出したヴィーシニャは、がっくりと項垂れた体をなんとか引っ張り起こして立ち上がる。ポピーのお使いを完遂させてやるためにも、やがて相まみえる恋人に、事の真偽を問い詰めてやるためにも。

 
2022/12/06