雨垂れが穿つ

 あれから半月ほどが経って、ヨヒラはやっと一人で歩ける程度にまで回復した。
 まだそこいらを走りまわることこそ叶わないが、それでもヨネに連れられて辺りを散歩する様子がたびたび見られる。今ではすっかりゴンベとも打ち解けたようで、この間は二人で昼寝をしていたのだと聞かされた。
 少しずつ、兆しが見えているのだろうか。セキが撒き、ヨヒラが水をやった種が、少しずつ芽吹き始めている予感がする。たとえばそれは、近頃少しずつねをはるようになった、彼女と同じ名前の花のように。
 兆しといえば、昨日にはタカノリがヨヒラを見舞いにきていた。曰く、先日の事件から団員たちのヨヒラを見る目が少しずつ変わっているらしい。もちろん老輩たちには未だ冷たい目を向ける者もいるが、それでもタカノリのように、疫病神と宣ったことを反省している人間は少なくないようだ。
 タカノリの謝罪を聞いたヨヒラは戸惑いつつもひどくやわらかな笑顔を浮かべていて、綻ぶようなそれには、傍から見てもじわりと胸があたたかくなったものだ。
 そして今、セキの右腕のなかにも彼女の兆しのひとつがあった。これを届けたときのヨヒラはいったいどんな顔をするのだろうと、少しだけ足取りを軽くしながら、ヨネの家の裏で歩行練習に励むヨヒラを訪ねる。

「よう、ヨヒラ。調子はどうだ?」
「セキさん……! えっと、今日は昨日よりたくさん歩けました。あと、少しずつごはんも食べられるようになってきて」

 以前は途切れそうになっていた食欲の糸も、近頃は少しずつ太くなっているらしい。そういえば、ヨヒラに出した膳が空になっている機会が増えたと、たしかにヨネも喜んでいた。
 青白くなっていた顔もだんだんと色づいてきて、セキは改めて、彼女が今を生きている事実を実感する。

「そうか、よかったな。じゃあ、そんなおめえにお見舞いよ」
「お見舞い――って、あ!」

 差し出したのは、先立っての一件でヨヒラが守ろうとしたポケモン。ついさっき集落のすみで震えているのを見つけて連れ帰ってきたのだ。

「ヒノアラシ、って言うらしいぜ。ギンガ団の学者先生に教えてもらったのよ」
「ギンガ団……?」
「ああ、黒曜の原野近くにやってきた人たちのことよ。先日話す機会があったんだが、そこにいた博士が同じポケモンを連れてたんだ」
「あ――」
「どうしてヒノアラシがヒスイにいたのかはわからねえが……それでも、こいつがおめえに恩を感じて会いたがってたのは確かだぜ」

 例のポケモン――もといヒノアラシは、ヨヒラのそばに行こうと今にもセキの腕から飛び出さん勢いだ。ゆっくりと地面に降ろしてやれば、案の定ヨヒラの足元へ駆け出して、寄り添うにようにくっつく。
 呆気にとられているのか、戸惑っているのか。ヨヒラはヒノアラシからセキに視線を移し、すがるような目を向けてくる。

「撫でてやれよ。きっと喜ぶぜ」

 痛む体を押して、ヨヒラはそっとその場にしゃがみこむ。そして、短い毛並みをおずおずと撫で、頭から頬、顎に手を滑らせた。ヒノアラシはヨヒラの手つきにうっとりとしていて、いやがるような素振りはいっさい見せない。
 おだやかなヒノアラシの様子に、ヨヒラは何かしらを考え込み、ゆっくりと口を開いた。

「ま……守ってあげなくちゃ、と思ったの」
「うん?」
「あの日、ひとりぼっちで震えてるこの子を見つけて……あたし、放っておけなかった。まるで自分のことを見てるみたいで、気づいたら、この子を抱いたまま走ってて」

 ヨヒラは、落とすようにそうつぶやく。ひとりぼっちの背中を抱きしめたあの日から……否、一人で飛び出した日からはさらに、こうして心のうちを教えてくれることが増えた。もちろん何もかもとまではいかないが、前のように笑って強がるようなことはほとんどなくなったと言っていい。
 それは、もしかすると心を開いてくれている、ということなのかもしれない。それならそれでなぜ集落を飛び出したのかが気になるところだが、きっと彼女にものっぴきならない事情があったのだろう。
 ひとつだけ気にかかることがあるとすれば、濁りきった瞳のままに吐き出された、なぜ助けたんだという言葉。あんなひんしの状態で「元の場所に帰れたかもしれないのに」という言葉が出てきたのは、結局のところ彼女のなかに「帰りたい」という思いが存在するからだろう。
 彼女が望むのであれば、いつかそうしてやりたい、と思う。それが保護者である自分の責任であるし、きっと故郷に帰れば身内や友人のたぐいもいるのだろうから。
 いつか帰る日がくるのか――そう思うと、一抹の寂しさをおぼえる自分がいた。この短期間でセキはヨヒラにずいぶんと情が移っているようで、もうすでに彼女と離れることを惜しむようになっている。
 しかし、いつまでも過去に、彼女一人にこだわってもいられない。自分たちは未来を見据えて、前を向かなければならないのだから。

「……伝わったんだろうぜ。そのときのおめえの気持ちがな」

 セキは、口元に笑みをたたえながらヨヒラに伝える。それが彼女にとっての一歩であることを願って。
 セキからの祝福を受けたヨヒラは、すぐにほろほろと、大粒の涙をあふれさせた。急に泣き出した彼女にヒノアラシはあわあわとしていたが、大丈夫だよ、という心からのひと言に、何かを感じたようである。

「ヒノアラシ……あたしと、お友だちになってくれる……?」

 ヨヒラの問いに、ヒノアラシは思い切り飛びつくことで応えた。
 

2024/01/24 加筆修正
2022/03/20