櫛風沐雨

「――キ、セキッ! こらっ、起きろ!」

 けたたましい騒音と呼び声に目を開けると、そこにあったのはひどくのうてんきなゴンベの顔だった。
 見慣れた家族の顔はセキに強い安心感を与え、先立っての怒声のことも忘れてこのままもうひと眠りしてやるかという気分にさせられる。
 やわらかな毛並みをひと撫でして、よし、とちいさなあくびを噛み殺しながら寝返りを打った――刹那。鈍い音を立てて目の前に落ちてきた拳を前に、セキの意識は一瞬で覚醒した。紙切れ一枚の距離で見舞われたそれが、つむじ風のように危機感を煽ったからだ。
 寝癖と湿気で暴れる髪を掻きながら、セキは寝起きのだるい体をゆっくりと起こす。立っていたのは顔を青くしているヨネで、その表情を見れば一大事であることはすぐに察せた。
 ヨヒラのことか――問うと、ヨネは震えた息を吐きながらうなずく。いないんだ、とつぶやく声はひどく頼りないもので、こんなふうに慌てた彼女はついぞ見たことがなかった。

「今朝から一度も見てないんだよね。昨夜は同衾してたはずなのに、あたし、あの子が抜け出したのにまったく気づかなくって」
「……探したのか? 集落のなかや、里山のあたりも」
「もちろんだよ! アヤシシ様をお呼びして走りまわったけどどこにもいないし、集落の誰もあの子のすがたを見ちゃいないんだ」

 抜け目のないヨネにも見つけられなかったというのなら、おそらくどこかで迷子になっているか、あるいは――

「すぐに準備する。少しだけ待っていてくれ」

 脳裏をよぎった不吉な考えを振り払うため、セキは勢い任せに寝床から立ち上がる。驚いたゴンベがよろけたのに謝る余裕もなく、足音を立てて寝所を去った。
 静かに取り乱すヨネを前にしたせいか、嵐のような心とは裏腹に落ちついている自分が恐ろしくて、もどかしい。何も起こらないでくれ、無事でいてくれと願いながらも、もしもの可能性が頭からちっとも消えてくれない。

「ったく……どうしろってんだよ」

 足元にすり寄ってくるリーフィアを撫でても、乱れた心中はいっさい静まる気配を見せない。
 すべての邪念を払拭するため、セキはとびきり冷たい水で顔を洗い、頬を打った。

 
  ◇◇◇

 
 また、雨が降り出した。あの日と同じ雨の音は、けれどもどこか冷たく感じて、ゆっくりと体温を奪っていく。
 張りつめたような空気と、予感。とりまくすべてが皮膚をぴりぴりと刺激してきて、少し歩くだけでも叫び出したくなるような独特の重圧に、強くのしかかりされている。
 どこを探しても見当たらないならば、もう一度初心に立ち返ってみようか――そう思い立って、コンゴウの里山の奥、ヨヒラと出会ったあたりへと足を運ぶことにした。もしかすると入れ違いになったのかもしれないし、ヨヒラがここいらを彷徨っていた可能性だってなくはない。彼女にはみだりに集落を出るなと言いつけていたし、そもそもまだここに来てせいぜい二ヶ月といったところなので、それほど土地勘があるわけでもない。
 ただ迷子になっているだけならばどれほどいいか……一縷の望みを抱きながら、会話もなくずんずんと山道を進んでいたおり、やけにいきり立つ数匹のサイホーンが目に入った。なかにはオヤブン個体も紛れているようで、真紅に染まる眼光をたたえながら、そこらじゅうを見まわしている。
 これは、と二人で目を見あわせて、気取られないよう草むらに隠れて進んだ。ゆっくりと回り込んだ先には、案の定ヨヒラのすがたがあって――

「あっ――や、やだ! こないで……っ!」

 今まさに、サイホーンたちから襲われんとしているところであった。
 おびえ後ずさるヨヒラを前に、一気に全身が強張るのを感じる。助けなければ、いやしかし、この場を一体どう乗り切れば――そんな考えばかりが脳内をめぐって、セキの行動を鈍くする。オヤブンポケモンがどれだけ凶暴かなんてことはヒスイに生きていれば嫌でもわかることで、だからこそ迂闊に近づくことができない。
 何かひとつでも失敗すればこの場の全員に凶刃が及ぶ――しかし、しかし。ここで立ち止まって手をこまねいているなんて、それこそ男が、コンゴウ団のリーダーがすたるというもの。
 セキの瞳に光が灯る。傍らにいるリーフィアに合図を送り、ヨネにも断りを入れた。彼女は、セキに応えるようにして笑う。

「後ろは任せな。いざとなったら全員担いでアヤシシ様と走ってやるよ」
「はッ――心強いぜ!」

 言うが早いか、セキはリーフィアと共に草むらから飛び出した。オヤブンサイホーンの背後をとり、不意をついて「リーフブレード」をお見舞いする。
 もともとサイホーンはぼうぎょが高いポケモンであるし、オヤブンともなればなおさらだ。ゆえに一発では仕留められなかったが、それでもそこそこの深手は負わせたはずである。リーダー格のオヤブンがふらついたことで、周りに付き従っていたサイホーンたちもこんらんしているように見えた。
 冷静さを欠くサイホーンたちの隙間をかいくぐって、なんとかヨヒラのもとへ駆け寄る。目があった瞬間にヨヒラから安堵の気配がして、強張った精神が少しばかり和らいだ。
 無事か、と声をかけた直後、セキの視線はヨヒラの腕のなかへと吸い込まれる。

「おめえ、そのポケモンは――?」

 怯えきったヨヒラは、意外にもその腕にちいさなポケモンを抱えていた。ここいらでは見かけないそれはやけに細い目をしているが、それでいてなかなかに愛嬌のある見てくれである。
 もしかすると近頃ヒスイを彷徨いている連中が連れてきたポケモンなのかもしれないが、あいにくと今はそんなことに脳みそを割いている余裕がなかった。

「こ、この子がサイホーンたちに襲われてて……助けようと思って近づいたら、この子、なぜかあたしのことちっとも怖がらなかったから、つい抱っこしちゃって、それで、たくさん逃げて……!」

 しどろもどろなヨヒラの頭をやさしく撫でてやる。えらいな、とひとつ言えば、なんとなくむず痒そうな顔をしてはにかんだ。
 しかし、今は一刻を争う事態だ。こんなふうに和やかな会話を続けていていい場ではない。

「とにかく話はあとだ! とりあえずはこの場を切り抜けねえと――」

 かるく声をかけて、いざサイホーンに向き合おうとした刹那。視界の端にほんの一瞬だけ、何かを決意したようなヨヒラの顔が見えた気がした。周りの騒音によりうまく聞き取れなかったが、彼女が何かを言ったのであろうことも、ギリギリのところで耳が拾う。
 セキが問おうとしたその一拍前に、あろうことかヨヒラは勢い良くその場から駆け出した。セキからも、ヨネからも、リーフィアたちからも離れるように、あっという間にいなくなる。
 すると、ふらついているオヤブンサイホーン以外のポケモンたちがすべて彼女に標的を移して――

「おい、ヨヒラ――!」

 サイホーンたちの渾身の「いわおとし」が、彼女に見舞われたのだった。
 

2024/01/24 加筆修正
2022/03/18