漫ろ雨ほど鈍く刺さって

軽度の嘔吐描写あり
 


 

「う、ぇ……ッ」

 汚濁音とともに撒き散らされたそれには、いつまで経っても慣れやしない。気持ち悪くて吐き出すのに、吐き出したそれを見てまた気分が悪くなる。吐けば吐くほど心も体も弱っていって、ゆっくりと侵食されるような感覚をおぼえる。
 人によってはひどく些細な負のスパイラルであろうが、しかしそんな矮小なものですら、じわじわと無遠慮にヨヒラの心身を蝕んでいた。
 ここにきてから、果たしてどれくらいの月日が経つのだろう。はっきりしたカレンダーや時計の類がないこの場所では、ただ日付を数えることすら難しくて億劫だった。裏庭に描いた正の字は知らぬ間に雨で消されていて、まるで自分の生きた証すら簡単になくなってしまうような恐怖を覚える。
 スマホさえあれば何でもすぐにこなせるのに――今更そんなものがあってもどうにもならないだろうに、ここでは慰みにもならないことばかり考えてしまう。以前は当たり前のようにあったそれを今さら懐かしく感じるだなんて、大切なものは失ってから気づくという俗説が真実であったことを、よもやこんなかたちで突きつけられることになるとは。
 そもそもスマホを持っていたって電波は入らないだろうし、充電だって覚束ないだろう。ポケモンに頼めば電気はどうにかなるかもしれないが、しかし自分は生き物にひどく嫌われる性質だ。セキやヨネに協力してもらったって、きっと何にもうまくいかない。
 自分は、ここじゃあ何の役にも立たない存在なのだから。

「あたし、ほんとに何もできないんだ……」

 じくじくと痛む胃を押さえながら、ヨヒラは人気のない暗がりで、ぼろぼろと涙を流している。雨のようなそれはそこいらの地面にはらはらと降り注ぎ、しかし、すぐに染み込んで見えなくなった。
 
 人の目がひどく怖かった。それはヒスイに来る前からきっとそうで、自分はおそらく、ずっと「人間」というものに恐怖を覚えて生きてきたのだと思う。みんな自分のことが嫌いで、目障りだと疎んでいて、自分はそこにいるだけで人を不快にする存在なのだという考えを元に、生きていかざるを得なかった。
 忘れることすら叶わなかった価値観は、ずっとこの胸に深く刺さっている。「母親」という人間に対してとりわけ良い印象を抱いていなかったのも、きっとそれと同じことだ。
 だからこそヨネという存在がとても意外で、そして、ひどくありがたかった。何者かもわからない自分を快く迎え入れて、細かな世話まで焼いてくれた。母であり姉でもある彼女のそばは心から安らぐ。彼女という存在がなければ、きっと今でも眠ることすら覚束なかっただろう。
 ヨネの作ってくれる食事を受けつけなくなってきた自分の体をひどく恨めしいと思うほど、ヨヒラはヨネのことを強く信頼していた。ヨネになら何を言われても従おうと思えたし、それについての後悔もない。依存と言うには少し乱暴かもしれないが、それによく似た感情がゆっくりと頭をもたげ始めている。
 何も知らないこの世界で生きるためには柱となる「何か」が必要だ。弱い自分にとって不可欠なそこに、ヨヒラは知らず知らずのうち、ヨネという大きな存在を置いてしまっていた。
 柱といえば、もう一人――ヨネの義弟であるセキもまた、ヨヒラにとって確かな安らぎを与えてくれる一人だ。彼は自分を見つけてくれて、そして、人の目から守り、受け入れてくれる人である。一人で泣くなと、そばにいると、確かな約束をくれた人。
 コンゴウ団のリーダーである彼が皆に働きかけてくれていることはもちろん知っていて、だからこそどうにもならない性質が歯がゆかったし、そこから脱するために集落の人々と仲良くしようと思った。どんなときでも笑っていようとしたし、はじめこそ自衛のために浮かべていた笑顔を、彼らのためにとつくり始めた。
 自分が笑ってさえいればみんなの輪に入れると、せめて彼らの迷惑にならない程度には溶け込むことができるだろうと、そんな甘い考えに則ってひたすら走った。自分がひたすら頑張れば、「明るくて愛嬌のあるこども」でいれば、やがては他の人たちにも受け入れてもらえると信じていた。
 けれどどれだけ頑張っても爪弾き者である現状はいっさい変わらなくて、人の視線や心ない言葉は依然として全身に刺さり続ける。時には雨のように、または凍てつく吹雪のようにピリピリと肌を刺して、どんどん生きる気力を奪っていく。

『気持ち悪い子。ずっと笑ってばっかりで、何を考えているかわかったもんじゃないわ』
『情が移ってからでは遅い。シンオウさまがお怒りになる前に、さっさと贄にでも捧げよう』
『きっとあの子は疫病神なんだよ。このままでは集落に……いや、きっとヒスイ全土に何かしらの災厄が起きかねない』

 耳の奥にこびりついた声は消えてくれず、ずっとずっと、舐るようなささやきが続いている。

『――それにしても、どうして長はあんな子供にご執心なんだ? あそこまでしてかばうこともないだろうに……このままでは長自身の評価に瑕がつくよ』

 刹那、ずくんと胸が痛んだ。
 自分の存在が、他でもないセキの邪魔になる。このまま彼のそばにいれば、今以上の迷惑をかける。それはヨネだって同じことで、彼女もキャプテンの座を追われる羽目になる可能性はゼロじゃない。
 人にもポケモンにも嫌われる自分をかばってくれたかけがえのない二人が、ただ自分がここにいるだけで脅かされるかもしれないならば。

「帰らなきゃ。はやく、もとのところへ……」

 こんな自分はやっぱり、いないほうが「正解」だ。

 
2024/01/24 加筆修正
2022/03/17