おはようから、おわりまで

 ナタネさんの家に入り浸るようになってから、毎朝良い香りにつられて目が覚めるようになった。
 それはナタネさんが愛情たっぷりに育てているお花たちのおかげでもあるのだが、それよりももっと僕の鼻腔を擽ってくれるものがある。
 重たいまぶたを開き、見慣れてきた天井とシーツを視界に入れてまばたき。とびきり大きなあくびをしてから、寝室にもたくさん飾られている色とりどりの花々に、心のなかで挨拶をする。本当はちゃんと声をかけてあげたほうがいいのだけれど、さすがに寝起きのガラガラ声を浴びせるのは忍びないし、一番に話しかけるのはナタネさんがいいのだ。
 枕元に置いてあるモンスターボールのチェックも欠かさない。オレンジはまだ眠りこけているようだが、他のみんなはおそらくナタネさんのお手伝いをしたり、外で遊んだりしているのだろう。
 まぶたよりも重たい体をゆっくりと起こして、黄緑色のシーツを軽く整えてから寝室を出る。のろのろとリビングのほうに足を運べば、そこには鼻歌まじりにキッチンに立つナタネさんの後ろ姿があった。
 使い慣れたエプロンを着て鍋をくるくると掻きまわすその様子は、僕がずーっと焦がれてやまなかったかたちをしている。
「あ、シラシメくん! おっはよう〜」
「おは……ざい、ます」
「あはは、今日もひっどい声だね。とりあえず顔洗って、歯磨きとかもしておいで」
「あい……」
 くすくすと笑うナタネさん。寝起きの体たらくを晒すのにはもう慣れっこだし、ナタネさんも「いつものことだ」と流してくれるようになった。……はじめの頃はすごい顔で見られていたけれど。
 洗面所に向かうまでの道中、足元にチェリンボやスボミーがまとわりついてきて踏みそうになり大変だった。あさのひざしが気持ち良いのだろう、ご機嫌な様子の彼らは僕が朝の支度をしている間もずっと嬉しそうにしていた。
 顔を洗い、歯磨きも済ませるとやっと意識が覚醒してくる。カサついた喉も少しはマシになったようで、キッチンに戻っておいしいみずを飲む頃にはいつもの潤いを取り戻していた。
「おはようございます、ナタネさん」
「はい、おはよう。目は覚めた?」
「あはは……はい、まあ、なんとか」
 なんてことない朝の挨拶をすませ、僕は一旦キッチンを離れてリビングや廊下を見てまわる。ナタネさんがごはんを作ってくれているあいだ、彼女の代わりに植物たちの様子を見るのが日課だからだ。
 丹精こめて育てられている花々は瑞々しく清らかで、近くにいるだけでとても爽やかな気分になれる。おはよう、調子はどうかな? 今日もきれいに咲いてるね。そんなふうに声掛けをしてあげるともっときれいに咲くんだよと教えてもらってから、その言いつけをずっと守り続けている。
 その成果が出ているのだろうか、最近みんなの元気がいいんだと褒めてもらったのは一昨日のことだ。
「シラシメくん、そろそろおいで」
「ん、ごはんできたんですか?」
「ご名答〜! 今日の朝ごはんはサンドイッチとスープ、それからきのみたっぷりのサラダだよ。カゴのみとオボンのみを多めに入れて、しゃっきりした目覚めをプレゼントしまーす」
「わあい、待ってました。もうお腹ぺこぺこで……」
 そして、待望の朝ごはん。このときは作業を中断してもいいんだよと、これも少し前に教えてもらったことだ。お花の世話も大切だけれど、それよりもあったかいごはんを食べてもらいたいと。
 配膳を手伝い、二人でダイニングのテーブルにつく。目の前に並べられたほかほかの朝ごはんは今までの人生で僕がずっと求めていたもので、その幸せが当たり前のように与えられる毎日がひどく愛おしい。
 ナタネさんの手料理の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。毎朝僕を起こしてくれるもうひとつの芳香はもちろんこれのことで、これがあるから毎日ゼンリョクで生きていられると言っても過言ではない。
 ジムリーダーとしてのお仕事もあるから、毎日忙しいだろうに。たまには僕が作りましょうか、そう言ったこともあったけれど、あなたに台所事情を任せるのは不安だと一蹴されてしまった。
 ……もっとも、続けて「好きな子のためにごはんを作れるのって、すごく幸せなことなんだよ」と言ってもらえて、しばらくにやけが止まらなくなったのだが。
「……よし、それじゃあ、いただこっか」
「はい! ……いただきます」
「いただきまーす!」
 二人で一緒に手をあわせ、ナタネさんの手料理に舌鼓をうつ。
 彼女の料理はいつもおいしい。はじめはきのみをふんだんに使った健康的なものばかりで、ジャンクフードを好んでいた僕にとっては物足りないときもあったけれど――今となっては彼女の作ってくれたごはんならば何でもおいしく思えるようになったし、むしろこのヘルシーなものが癖になっているまである。
 少しずつ、染められているのだろうか。自分の体にめぐる血も、細胞のひとつひとつも、彼女の作り出すものによって形成されるようになってきている。それはひどく幸せで、そして、少しだけ怖い気もする。
 ナタネさんの好きなものを知れることも、それを好きになれることもひどく嬉しいのだけれど、同時に僕の好きなものを知ってほしいと思うのは傲慢なことだろうか。少しずつ、ほんの少しずつ、お互いの好きなものを共有していって、いつか同じになれたらと思うのは、重たい考えだろうか。
 僕の、この混沌とした腹の内をすべてさらけ出してしまったら、ナタネさんは僕のことを嫌いになってしまうだろうか。
 好きになればなるほど、幸せが増えれば増えるほど不安も膨れ上がっていって、女々しくも思い悩んでしまうのは嘘じゃない。けれど結局は彼女への「好き」がすべてに勝ってしまうので……その不安や苦痛すら愛おしくなってしまうのだから、僕は本当に、骨の髄まで彼女に惚れ込んでしまっているようだ。
 重たい感情を料理とともに飲み込んで、お腹の奥にしまい込む。そうして、いつもどおりの笑顔を浮かべる。穏やかな時の流れを同じ空間で感じながら、僕は今日も幸せを噛みしめている。
「――ごちそうさまでした。今日もすっごくおいしかったです、ナタネさん」
「ごちそうさま」に「あいしてる」の気持ちを乗せて、僕は今日も、和やかな一日を開始する。

20211130