さいごの機会

 あれから、桃琳はまるで見違えるように元気になったと思う。
 その活力の理由が無理な妖魔退治をしなくなったからか、それともストレス源が減ったからなのかはわからないが、とにかく以前よりも生き生きし始めた彼女のすがたを見るのは、ぼくとしてもとても喜ばしいことだ。
 日々鍛錬に励むかたわら、彼女のことを考える。守りたいという決意を新たにしながら挑む鍛錬は、見る人によれば浮ついたものに感じられるかもしれないが――しかし、ぼくにとってはある意味で根源にも等しい記憶であるので、むしろ初心に返っているようなものだ。
 ――もっとも、瞑想にはげむ場合には雑念と言うに相違ないものであるが。
 
「あっ……やっと見つけた! 重雲、おはよう! ここにいると思ったよ~」

 そろそろひと息つくか、と瞳を開いたとき、まるで見計らったかのように桃琳が声をかけてくる。……否、彼女も立派な方士であるのだから、きっとぼくが休憩するのを待ってくれていたのだろう。
 強いて言うなら、こうして声をかけられるまで彼女の気配に気づかなかったことが気にかかるが――自分の瞑想の練度が上がったせいなのか、それとも桃琳が気配を消すのがうまいからなのか、真偽の程はわからない。……なんとなく、後者が強いような気もするが。

「おはよう、桃琳。今日も元気そうで安心した」

 ぼくがそう言うと、桃琳はひときわ嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
 
 近頃の桃琳は、まるで噛みしめるように毎日を過ごしているふうに見える。その生き様は当たり前の日常を目いっぱい抱え込もうとしているかのようであり、喜ばしい反面、ほんの少し胸の奥が痛んだりもする。たとえば、ぼくが鍛錬していると決まって目の前に現れるし、事あるごとに「会えて嬉しい」とか「だいすきだよ」とか、気持ちを言葉にしてくれるのだ。
 もとより感情表現は豊かなほうだし、気持ちを素直に伝えられる性質だったとは思うが、最近はそれもひときわなように感じられてならない。ぼくとしては毎度心臓が騒ぎ出してしまうので少し控えめにしてほしいくらいなのだが――その好意を無下にするようなことはしたくないし、よっぽどのことがない限りは野暮だろうと思い、言及することを控えている。

「最近はねえ、前にも増して調子がいいんだ。咳き込むことも減ったし、体の痛みも少し和らいだと思うの」
「それはよかった。ただ、調子が良いからって無理だけはするなよ」
「もちろん! これ以上体を壊して、重雲に会える機会が減っちゃったら哀しいもんね」
「なっ……お前はまたそんなことを……!」

 ぼくが慌てふためくすがたを見て、桃琳はひどくおかしそうにくすくすと笑う。その些細な日常に喜びを感じてしまうのは、先日の一件を経て――桃琳の「お仕事」の実態を知って――彼女が今も生きているという事実を、強く噛みしめるようになったからだろうか。
 ただこのところ思うのは、ぼくはいつも桃琳にもらうばかりで、代わりに何かを与えることができていないのではないか、ということだ。純陽の体を言い訳のように逃げるばかりで、自分の気持ちをきちんと口にしたことがいっさいないと気づいたのは、つい昨夜のことだった。

(ぼくは……ぼくだってずっと、桃琳のことが好きだったのに)

 幼い頃の初恋を、今でもずっと引きずっている。「引きずる」という表現は相応しくないかもしれないが、あのときに抱いた感情を、ぼくはぼくなりに大切にしてきたつもりだ。
 それなのにぼくは今までそれを言葉にすることもなく、桃琳からのアプローチに甘えるばかりだった。一度も「好き」と伝えることすら考えずに、今日までを過ごしてきてしまったのだ。
 別に、その先の関係を期待しているわけではないが――もらうばかりはあまりに不公平ではないか。目の前の生が当然ではないことを実感した今、「明日でいい」なんて生易しい考えは許されない。
 自覚してからは居ても立ってもいられなくなり、昨夜の帳はやけに長く感じられた。……今のぼくは、ままならない長夜を越えて立っている。

「なあ、桃琳。……少しいいか」

 ぼくがそう訊ねると、桃琳はいつもどおりさっぱりと笑って、ぼくのことを見つめ返してくる。
 見慣れた光景のはずなのにやけに緊張してしまうのは、気持ちを伝えることを意識したせいだろうか。こんなふうに胸をざわつかせていては一人前の方士になんかなれないし、そもそもまた純陽の体が暴れまわってしまうかもしれない――そうして心を落ちつかせようとしても、しかし、意識すればするほど頭はぐるぐると混乱して、うまく息ができなくなる。
 ぼくの様子がおかしいことに気づいたのか、桃琳はこてんと首を傾げてくすくすと笑ってみせた。そのやわい手のひらが頬へと伸びてきて、思わず後ずさりをしてしまう。

「どうしたの? 重雲、なんかおかしいよ?」
「い、いや……その、べつにおかしくは」
「え~? ふふ、まあ、おかしいって言われてうなずく人なんてなかなかいないか」

 触れられなかった手をそっと戻しながらも、桃琳はやはり楽しそうに笑っている。どうしてそんなに楽しそうなんだ、なんて言い方は失礼極まりないのだろうが、ぼくの喉はそれを抑えることもせず、素直に疑問を吐き出した。
 ぼくの言葉を受けた桃琳はきょとんと瞬きを繰り返して、なおさらに笑みを濃くする。えっとねえ、と語り出すさまはまるで宝箱をひらくときの子供のようでちくりと胸が痛んだが、続けられた言葉は予想外な響きをしていて、今度はぼくのほうが瞬きを繰り返す羽目となった。
 桃琳は言った。「重雲の目には、今のわたしが楽しそうに見えるんだね」と。どことなく不穏で恐ろしい物言いに、ぼくは「本当は楽しくないとでも言うつもりか」と返してみる。すると桃琳はまさか! と両手をパタパタ振って、ぼくの疑問をあっけなく否定した。
 
「楽しくないなんてことはないよ、愚問だなって思っただけ。……だってわたしね、重雲と一緒にいられるだけで毎日楽しいんだもん。だからそう見えるのはある意味で当然だし……あとはそうだなあ、重雲にもわたしの楽しさが伝わってるっていうのが嬉しいのかもね」

 言いながら、桃琳はその場でくるくるとまわってみせる。
 なんてことない動きがまるで演舞のように見えるのは、彼女が日々鍛錬を怠らない優秀な方士であるからだろうか――もしくは、ただ単にぼくの目が惚れた弱みで塗り固められているせいだろう。
 
「――桃琳、」

 まるで、誘われるようにその名を呼んだ。桃琳はぼくの言葉にはっと動きをとめて、先立ってと同じように、ぼくの目をじっと見つめてくる。
 想いがあふれるとはこういうことを言うのだろうか。ぼくは胸の高鳴りすらきっぱりと無視して、思いの丈を喉から吐き出そうとする。今なら自然と言えるような気がしたからだ。

「ぼく、ずっとお前に言えてなかったことがあるんだ。……聞いて、くれるか」

 桃色の瞳に映っている氷塊が、じっとりと溶け出していくのが見えた。それはただの錯覚か、もしくはぼくの胸のうちにある彼女への思いが溢れ出ているがゆえの、大げさな幻覚かもしれない。
 ぼくたちの間に風が吹く。吹きすさぶ秋風はやはり体に刺さるようで、ほんの少しだけ背筋が冷える。このままここに立ち尽くしていては桃琳の体に負担がかかってしまうかもしれない――そう思って顔を上げると、ふとぼくの鼻腔を香り立つ風が通り抜けた。馥郁たるそれはふわりと精神をかき乱し、研ぎ澄まされた感覚を空腹へと散らす。
 ぼくが怪訝そうな顔をしたのに気づいたのか、桃琳は「忘れてた!」と大きな声をあげて走り去って行った。すぐに見えなくなった気配はまるでぼくの決意までもを連れ去ってしまったようで、一気に静かになった庭の片隅にて、ぼくはがっくりと肩を落とす。

 しばらくすると、奥のほうへと消えていった桃琳がぼくを呼んでいるのが聞こえてくる。展開についていけないまま、浮かべた疑問符も隠さずにその声を追いかけてみると、しゃがみこむ桃琳のそばにぱちぱちと火花を散らすドラム缶がどんと鎮座しているのがうかがえた。
 つい先日までなかったはずのそれに瞬きを繰り返す。ただひとつわかることがあるとすれば、香りの出処がこれだろうということだけだ。ぼくの困惑をよそに、桃琳ははきはきと話しはじめる。

「昨日璃月港でたくさんサツマイモを手に入れたから、ちょうどいいやと思って焼き芋をつくってみてたの! 他の方士たちにもちゃんと了承はとってあるよ」
「はあ……」
「焼き芋なら冷やしても美味しいし、重雲も一緒に食べられるでしょ? 腹持ちもいいから、鍛錬が終わったあとの腹ごしらえにちょうどいいかなって思ったんだけど……迷惑だったかな?」

 しゅん、と様子をうかがうように、桃琳はじっとこちらを見てくる。
 ……ぼくは、本当にこの顔に弱いらしい。決意をすっかり吹き飛ばされた脱力感や無視のできない空腹も手伝って、今のぼくにできたのは彼女の言葉を否定してやることくらいだった。

「いや……ちょうど、ぼくも小腹が空いていたところだ。一緒に食べよう」
「ほんと? やったー! せっかくだし、他の人たちにも声かけてくるね」

 言いながら、桃琳はまた駆けてゆく。その背中はあっという間に小さくなっていって、彼女の背負う業やつけられた傷なんて微塵も感じさせないほど溌剌としているふうに見えた。
 ……このまま、元気になってくれるだろうか。その身を妖魔に差し出すようなこともしなくなったのだし、これ以上桃琳の体に負担がかかることはほとんどないと考えてもいいのかもしれない。ぼくが一緒に居さえすれば妖魔が近寄ってくることもないし、もしかするとこれから見違えるほど健康になっていく未来もあり得るかもしれないのだ。
 そう考えると、彼女の体が弱いのは無理な妖魔退治の影響という可能性があるわけで、まるで数々のピースがかっちりとハマったような、清心をつけた水を煽ったときにも似た清涼感がぼくを満たす。

(……きっと、好転していくはずだ。何もかも――)

 未だ火花を散らすドラム缶から距離をとりながら、ぼくはちいさく息を吐き、意識を焼き芋の芳醇さへと集中させるのだった。

2024/03/08