はじめての怒り

 少年方士の朝は早い――かつて行秋が、茶化したように言いながらぼくの鍛錬を眺めていたことがあった。あれは一体いつのことだっただろうか、もう何年も前のことのような気もするが……しかし、たとえ何年何ヶ月が経ったとて、ぼくが鍛錬の手を緩める日などありはしない。
 ぼくはいつか立派な方士になって、この璃月を守りたい。そして、桃琳がもう危ない目にあわなくて済むような世界にしたい――あの日傷だらけで横たわっていた力ない姿を目の前の彼女に重ねながら、ぼくは在りし日に交わした「契約」のことを思い出していた。
 もっとも、ここにいる桃琳は負傷した手負いの様子ではなく、今まさにぼくとの手合わせの真っ最中なのだが――
 
「重雲ッ、隙だらけだよ……!」
 
 刹那、ぼくの眼前には桃琳の掌底が鋭く迫る。鼻先に迅風を起こしたそれはすぐに指を閉じて、ぴん、とぼくの額をつついた。その指の動きはまるで終わりを告げる合図のようで、途端、張りつめた空気は一瞬で緩和し、ぼくは無意識のうちに詰まらせていた呼吸を再開する。
 指の隙間の向こう側には先立っての桃琳ような鋭い眼光はなく――いつもどおり、柔和に微笑む桃色の双眸があった。
 
「はあ……また、ぼくの負けか」
 
 声をあげる間もなく此度の手合わせは雌雄を決し――今回も、ぼくが桃琳から勝ちをもぎ取ることはなかった。あのように気を散らせていては当前のことだが、それでも悔しいものは悔しい。
 しかし、悔しさなんて激情は純陽の体の大敵だ。ぼくは心身を落ちつけるため深呼吸を繰り返し、同じく呼吸を整える桃琳の様子を観察する。
 
 体こそ弱いものの、桃琳の方士としての実力は頭ひとつ抜けている。方術のみならず体術もその腕前は天下一品で、養父と組んで数々の妖魔退治をこなしていると聞いている……彼女が得意とするのは片手剣であり、それを扱わせたら右に出るものはいないともっぱらの評判だ。
 恥ずかしながら、ぼくは今まで一度も彼女に勝てたことがない――
 
「相変わらず桃琳は強いな。いつまで経っても勝てそうにない」
「あはは、まあ、これでも『お仕事』をやってる身だからね。でも、重雲だってここしばらくは見違えるくらいに強くなってるよ」
 
 桃琳はうんと目元をゆるめながらぼくのほうを見る。その色合いは初めて会った頃といっさい変わっておらず――否、当時よりもずいぶん人間らしいというか、見違えるほどに感情を乗せるようになったと思う。ぼく自身あの頃の記憶はひどく朧気だが、その瞳がまるでガラス玉のごとく無機質であったからこそ、当時のぼくは桃琳がいなくなってしまうかもしれないという恐れを抱いたのだから。
 あの頃の桃琳からはまるで生気が感じられなくて、それこそ桃の花と一緒に消えてしまいそうなくらいだった。人形のようでもあった頃を思えば、今のようによく笑う快活な様子はまるで別人と言っても相違ないふうであるだろう。
 
「そういえば……改めて聞いたことはなかったが、桃琳はどうしてそんなに強いんだ? 何か、強さの秘訣があったりするのか?」
 
 ぼくがそう訊ねると、桃琳はうーん、と首を傾げながら悩み始めた。あまり深刻なふうではないが、自分の発言によって悩ませてしまったことがほんの少し申し訳なくなる。
 ぼくが謝罪を口にすると、桃琳は小さく首を振ってぼくの罪悪感を優しく否定してくれる。
 
「重雲が謝る必要はないよ。ちょっとね、言語化しづらいっていうか――どう伝えればいいかわかんないだけだから」
 
 言語化しづらい――まあ、確かに「どうして強くなりたいのか」ならまだしも、「どうして強いのか」という漠然とした質問は答え方に迷ってしまうものだろう。質問の仕方が悪かったか、と他の言い方はないかと顔をあげたとき、小さく頷いた桃琳の唇が動き出すのが見えた。何か糸口を見つけたのかもしれないと、ひとまず彼女の言葉の続きを待つことにする。
 
「多分ねえ……死にたくないから、かな」
 
 しかし、桃琳から返ってきた言葉はぼくには理解が及ばず、また、過去の痛みをじくりと思い出すものでもあり――それこそ件の楔の日、桃琳がいなくなってしまうかもしれない疑念によって湧き上がった不安が、足元から再び這い上がってくるようであった。
 恐怖による喉のつかえを覚えていると、桃琳はそれを待機と取ったのか、補足するように言葉を次ぐ。
 
「だってわたし、『お仕事』でいっつも死線をくぐってるからさ。ちょっとでも気を抜けば死んじゃうような場所だから、死なないように強くなるしかないんだよね」
 
 桃琳は事もなげに言ってみせるが、その口から放たれる言葉はどれもひどく物騒で不穏なふうに思える。そして、同時にせり上がってきたささやかな違和感が、ぼくの胸の奥を何度もつついた。
 確かに方士は妖魔退治のために身を挺して戦うものだが、「死なないために強くなる」という桃琳の物言いには、何やらそれ以上の思惑というか、理由があるように思えてならない。ぼくが妖魔退治の実態を知らないからと言われればそれまでだが、しかし、それでも無視のできない違和感がぼくを襲っていた――朗らかな笑顔によって吐き出されたシビアな言葉が、心の表面を優しく刺す。
 
「桃琳は――」
 
 ぼくは、再び口を開く。桃色の瞳をまっすぐに見つめながら口を動かせば、桃琳は小さく首を傾げながらぼくの言葉を待ってくれた。
 
「いつも、その『お仕事』でどんなことをやっているんだ。お前がよければだが、ぼくにも少し聞かせてほしい」
 
 そう訊ねると、桃琳は一瞬だけすぅと冷たく目を細めたあと、いつもどおりに笑ってうなずく。
 
「いいよ。重雲が聞きたいのなら、何でも教えてあげる」

 
  ◇◇◇

 
 正直ね、重雲の訊きたいことが何なのかっていうの、もうなんとなくわかってるんだ。どうしてわたしがそこまで必死なのか、それが気になってるんでしょ?
 じゃあ――そうだな、それこそこのあいだの、わたしが「神の目」を手に入れたときの「お仕事」について話そうか。多分、そのときが一番わかりやすいだろうから。

 重雲も知ってのとおり、わたしは妖魔退治に出かけるときいっつもお父さんと一緒に行くんだ。なんでかっていうと、わたしたちが一応……なんだろう、いわゆるコンビみたいに扱われてるからなんだけど、実のところは、お父さんはわたしがいないと「お仕事」ができない人だからなんだよね。
 わたしが妖魔退治に行くんじゃなくて、お父さんの妖魔退治にわたしがついていってるの。それが、わたしたちの基本ね。
「突如として頭角をあらわしはじめた方士の親子――地味ながら卓越した方術を扱う父親と、彼によって鍛え上げられた戦士の娘。その仔細は謎に包まれているが、二人の手にかかればどんな妖魔も泣いて逃げ出してしまうだろう」――これが、いつからかわたしたちにつけられるようになった謳い文句で、世間一般のわたしたちのイメージだと思うんだ。多分、重雲が知ってるわたしたちもそうだよね?
 でも、本当は違うの。……ううん、すべてが違うってわけじゃないね。ほんの少しの齟齬がある、ってくらいかな。
 わたしがお父さんと一緒に妖魔退治に行く理由――それはわたしがお父さんに必要とされてる理由と同じなんだけど、端的に言うと、わたしが妖魔のたぐいを引き寄せやすい体質で、デコイとして優秀だからなんだ。
 重雲は多分知らないよね、わたしの体質のこと。だってあなたには純陽の体があるから、あなたのそばにはいっさいの妖魔が寄ってこなくて……そう、わたしたちの体質ってまるで正反対なんだ。
 重雲と違って、わたしのそばにはいつも妖魔がつきまとってる。一人でいるとずっと体が痛いし、苦しいし、嫌なことばかり考えちゃうの。小さい頃は何かを考えることすら億劫になったりもして、ずっとぼーっと過ごしてた時期もあったっけな。あとは……そう、わたしと一緒にいるせいでおかしくなっちゃって、わたしに向かって刃を向けてくるような人もたまーにいたっけ。
 重雲の体質のおかげで、わたしはあなたのそばにいると体の調子がいい。いつもよりずっと元気でいられるし、心だって穏やかなんだ。でもそれは、わたしが重雲のことを大好きである以上に、あなたの純陽の体によって普段のわたしを取り巻いている妖魔がいっさい近寄ってこないからだと思うの。
 わたしはずっと……そう、ただここに立っているだけで、あなたの体質に救われつづけてるんだ。
 
 えっと……話を戻すね。このあいだの「お仕事」のときも、わたしはいつもどおりお父さんの優秀なデコイとしてあの場に立ってた。妖魔が出るって噂の怪しい秘境に二人で行って、妖魔の気配が一番強い場所に、わたし一人で突入させられて……そうして、妖魔たちが集まってくるのを待つの。重雲が見たこともないような有象無象がいきり立って、わたしのところにやってくるまで――いわゆる首魁と呼べる存在がそのすがたを現すまで、わたしはいつもたった一人で戦い続けるしかない。お父さんはそこまでの妖魔を相手にできるような人じゃないからね。
 だからわたしは強くならなきゃいけないの。わかるでしょ? 弱っちいまんまだとすぐに妖魔に殺されてしまう――まあ、ありがたいことにわたしはたくさん鍛錬をさせてもらえて、こうして今もギリギリ生きてられてるんだけどね。
 ただ――このあいだは少し違った。いつもどおりの段取りを、うまくこなすことができなかった。あの日の妖魔はどうにも様子がおかしかったっていうか、いつもより凶暴で荒っぽい気質のやつらだったみたいで、お父さんの方術もなかなか効かなくってね……わたしもあわや大惨事というか、今度こそもう少しで死んじゃうところだったんだ。
 もう、本当にびっくりしたよー。形すら持たないような妖魔がすぐ目の前まで迫ってきて、あと少しで呼吸の自由を奪われそうになったんだもん。
 でも、わたしはここにいる。死にたくないって思ったから。こんなところで死んでたまるかって、わたしは五体満足で家に帰って、重雲に「ただいま」を言うんだって――そう強く願ったら、運良く「神の目」を授かったってわけ。
 わたしの手から噴き出した炎に妖魔たちはたちまち怯んで、その隙をついてお父さんが彼らを退治した。……とどめはいつもお父さんがさすんだよ、それが「契約」だからね。
 仕事終わりのお父さんの顔ったら面白かったなー。「やっぱりおまえは岩王帝君からの贈り物だ!」なんて盛り上がっちゃって、それはもう手がつけられないくらいだったんだよ――

 
  ◇◇◇
 

 途中から、桃琳の話はいっさい頭に入ってこなかった。あまりの衝撃に脳みその処理が追いつかなかったのか、ぼくはぶるぶると震える手を見つめ、呼吸を落ちつけるためにそれを強く握りしめている。
 今のぼくを奮い立たせているのはおそらく「怒り」の感情だ。純陽の体の都合上普段は強く抑えつけているはずの憤りの思いが、弾けるように湧き上がってはぼくの目の前をちかちかと明滅させる。
 いつものとおりに落ち着けとおのれに言い聞かせてみても、しかし、その声はぼくの心に届いてくれないようだった。
 
「重雲……? ねえ、大丈夫? なんだか息が荒いけど――」
 
 この憤りはどこからくるものなのだろう――そんなもの、考えなくともわかっている。半分は桃琳をまるで消耗品のように扱う彼女の養父に対しての怒りで、もう半分は何も知らず呑気に過ごしていた自分自身への情けなさだ。
 ぼくはなんて愚か者だったのだろう。桃琳のことを何にも知らないまま――彼女の置かれた環境を何にもはからないまま、ただ脳天気に過ごすばかりだった。ぼくといると元気が出ると言ってくれた言葉をただ鵜呑みにして、馬鹿みたいに舞い上がっていた。
 ぼくと一緒にいると安らぐというその意味を、桃琳も少なからずぼくを想ってくれているからなのだと信じて疑わなかった。――否、その気持ちに嘘はないのだろうが、ぼくはこの純陽の体を疎んでいるくせに、結局はこの体質がないと何も得られない子供なのだと突きつけられたような気分だ。
 ……悔しい。何も知らない自分が。無知を極めたままで目の前の事実しか見ていなかった愚かな自分を、今すぐにでも一発殴ってやりたいくらいだ。
 
「ぼ、くは……」
「へ……?」
「ぼくは――もう、いてもたってもいられない。……今すぐ、お前の父親に会いに行く」
「えっ――まって、重雲……!?」
 
 ぼくは吹き飛びそうな意識の傍ら、両足を忙しなく動かして進む。目指すは我らが一族の分家――桃琳の養父が住まう屋敷だった。

 
 2024/02/23