ああ、どうしていつもこうなっちゃうんだろう――嫌な予感というやつは、なぜだかいつも的中してしまうものである。
何を間違えたのか? 何がよくなかったのか? 冷静さを欠いた頭では、たとえどれだけ考えても答えが出ることはない。
ひとつだけ確かなのは、ミラが今、おのれの軽率な行動をひどく悔いているということだけだ。
思えば今日は初めから妙だった。
朝食のデザートにヴァルベリーのケーキが出てきたり、ホテルのエントランスで吟遊詩人に出会ったり、何気なく手に取った新聞で、故郷のことが取り上げられていたり――それらいっさいはミラにとって眉間のシワを濃くするものであり、ため息の数を三割増しにしてくれた。
なかでも一番の違和感は他でもないタルタリヤである。ミラが目を覚ましたときには既に部屋を発っていた彼は、ホテルに帰ってくるなりミラを手合わせに同行させようとしたのだ。
「なんたって、今日の相手はあのクロリンデだよ? こんな機会は二度とないだろうし、君だって学びを得られるチャンスだ。強者の戦いを目に焼きつけておくんだよ。それはいつか、必ず君の力になるからね」師匠らしい真面目な物言いでそう言われてしまっては、もはや断ることなどできなかった。
首を横に振れなかった理由はもしかすると、心と時間を尽くして自分を指導してくれる彼に対して抱いている、敬意にも似た感情のせいかもしれないが……それについては、ここで語るようなことでもないだろう。
キッカケはどうあれ、タルタリヤと共に歩くフォンテーヌの町並みはミラの瞳をよりいっそう華やかに彩ってくれる。先日のそれとは比べ物にならないほどきらびやかに映る世界は、決して浮かれた道中ではなかったけれど、それでも満足のいくものだった。そこまではよかったのだ。
ミラの背筋が凍てついたのは、ボーモント工房の近くを通りかかったときだった。そこで、カブリエール商会のゴロツキが工房の主であるエスタブレに絡んでいるところを目撃してしまったのである。
否、現場の仔細はもはやどうでもいい。問題は、そこに立ち会っていたとある人物の影だった――
明るく爽やかな金髪を風になびかせる、溌剌とした振る舞いの少女。それから、隣に浮かぶ白い物体。――旅人とパイモンだ。故郷、璃月、それから稲妻に引き続き、もはやこんなところでも出くわす羽目になるだなんて、どうやら彼女たちの運命はひどく交差した形をしているらしい。
途端、ミラの心中は嵐のように吹き荒れる。まるであの日の「災害」のように。町ひとつ吹っ飛ばしてしまいそうな大嵐は、ミラにとって記憶に新しいものだ――
(あの女――どうして、またわたしの前に現れたの……!?)
白い喉は、不格好にひきつった呼吸を繰り返すのがやっとだった。ミラが立ち尽くしている間にもタルタリヤは旅人へと飛びついていって、楽しそうに家族の話をしている。ミラにできることなんて、二人のやり取りを少し離れた場所で見ながら、くちびるを噛みしめることくらいだった。
まるで、舞台から無理やり降ろされてしまったような気分だった。旅人はもちろんのこと、タルタリヤだって舞台の中心人物たる人だけれど、悲しいかな、自分は決してそうじゃない。彼らとの間にある明確な一線を突きつけられたような気がして、口を挟むことすらできなかった。
ミラの目の前で、軽快に物事が進んでいく。タルタリヤは嬉しそうだ。大好きな「相棒」とまた会えて、様々なことを共有して、満足そうに笑っている。飾り気のない笑顔からは彼が心の底からこの邂逅を喜んでいることが伝わってきて、見慣れた横顔であるはずなのに、まるで別人のように思えた。
やがて、タルタリヤの口からはたくさんの「秘密」が明かされていく。フォンテーヌに来た理由。最近の不調。それから、師匠との出会い――どうして、わたしには何も言ってくれなかったんだろう? 泉のように飛び出てくる事実は、そのどれもがミラにはいっさい知らされていないものばかりだ。何も知らず、何も疑わず、ただのうのうと過ごしていただけの自分は、文字通り蚊帳の外じゃないか。
……拳が震えてとまらない。極めつけとなったのは、目の前でたやすく譲渡される「神の目」――タルタリヤの手から旅人に渡るそれを、ミラはまるで虚無の雨が降る夜のように、怨めしい気持ちで見ていた。
ミラが言葉を発することができたのは、タルタリヤが旅人に別れを告げたあとのことだ。
「……ねえ、なんで?」
やっとの思いで出した声は、想像の何倍もか細くて、情けなかった。前を歩くタルタリヤはミラの問いかけに足を止め、いつもと変わらぬ調子でゆっくりと振り向く。
「なんで、って……何が?」
思い当たる節はない。そう言いたげに澄んだ瞳は、ミラの身すべてをズタズタに引き裂かんとする、ある種の鋭さを持っていた。
そうして思い出すのだ、彼自身が鋭い刃であったことを――
「どうして、わたしには教えてくれなかったの……?」
絞り出したミラの言葉に、タルタリヤがおおきく目を見開く。
蒼海の瞳には瞬時に「驚愕」の二文字が塗り込められ、その色濃さはまるで彼自身にも制御ができていないふうにも見えた。
――がらり。何かの崩れるような音が、耳の奥で鳴り響く。
「わたし、何にも教えてもらってないよ? タルタリヤの『神の目』のことも、調子が悪かったことも、師匠との出会いも――」
「それは――」
「それだけじゃない、どうしてあの女に『神の目』を預けたの? ……わたしじゃダメだったから? わたしじゃ、頼りないから……!?」
「違う、待ってくれ。ミラ、俺の話を――」
「どうして!? わたしがあの女を嫌ってるって知ってるくせに! どうしてわたしの目の前であんなにベラベラっ……そんなにあいつがいいなら、わたしのことなんて放っておけばよかったじゃない!!」
決壊。それが、最も適切な言葉かもしれない。ミラの意志とは裏腹に、責めるような言葉ばかりがいくつもあふれ出てくる。
――信じてたのに。そんな、ひどく身勝手な思いが浮かんでは消えてとまらなかった。
嘘をつかない人だと思っていた。隠しごとのない人だと信じていた。けれど結局二人の付き合いは人生のさわり程度にとどまり、たった数年のわずかな関わりで彼を理解した気になっていた、ただそれだけなのだと思い知る。
……ああ、自分はまた「間違い」を犯したのか。そんな諦念じみた思いも、またひとつあふれ、落ちてゆく。
たとえ眼前のタルタリヤが傷ついたような顔をしていても、ミラにはもうこの口を閉じることができなくなっていた。
「も、っしらない……! こんなことなら、フォンテーヌなんて来なきゃよかった!!」
途端、両足は視線を振り切るように駆け出す。これ以上彼の言葉を聞きたくないし、醜態を晒したくもなかった。
言い訳なんかしない人だと信じている――つもりだったけれど、今、その信頼が揺らぎそうになっている自分がいることにも気づいている。まるで自分の真ん中にある柱がぐらついているような錯覚が、ミラの足元を支配していた。
このままでは彼への信頼だけでなく、「ミラ」という存在ですら揺らいでしまうかもしれない――まるで自分がいなくなってしまうような、暗がりの不安が目の前に広がっていた。
追いかけてきてくれるかな、なんて浅ましい期待も一緒に、すべて振り払えてしまったら。そんな薄汚れた望みだけを握りしめて、モノクロの町をひたすらに駆け抜けた。
◇◇◇
どれだけの距離を走りつづけただろう。気づけば視界には見たことのない景色が広がっていて、それらは上がった息と共にミラの焦燥感をひどく煽る。
フォンテーヌ廷は広い。一本路地を間違えただけで別世界へと迷い込んでしまうし、地下に広がるサーンドル河なんて同じ町とは思えないくらいだ。現に今も怪しげな店と舐めるような視線に取り囲まれていて、緊張の汗が頬を伝う――「できれば一人にはしたくないんだけど……フォンテーヌ廷を歩くなら、ちゃんと用心するんだよ? 連続少女失踪事件なんて物騒な話もあるし、君みたいな可愛い子は、悪い大人にすぐ目をつけられてしまうだろうからね」兄のようにやさしく教え導いてくれたタルタリヤの声が、頭の奥でこだまする。
……さっき、あんなにひどい言葉を浴びせかけたくせにな。都合のいいことばかり考える自分が情けなくて、思わず膝を折りそうになってしまった。
ぜえぜえと泣く肺をなんとか落ち着かせて、深呼吸を試みる。三度目のそれを済ませた頃、あらためて辺りを見まわす余裕が出てきたのだが――直後、ミラはその判断をなによりも恨むことになる。
「あれ? あなたは――」
不幸はまた別の不幸を連れてくる――そんなことわざが、ミラの故郷には存在した。
あの国を通り抜ける風は、いつだって喜びだけを連れてくるわけではないのだ。ちいさな拳を思い切り握りしめながら、ミラは再びくちびるを噛む。
背後からかけられた疎ましい声は、たしかにミラへと向けられていた。人好きのしそうな声はミラの神経をこのうえなく逆撫でして、鬱屈とした気分をなおさら下に向かせてくれる。
(――ほんとに、どうしてこの女はわたしの邪魔ばっかするんだろう)
渋々ミラが振り返ると、相手は――旅人は、どこか怪訝そうな目を向けてくる。疑い交じりの眼は以前稲妻で出くわしたときよりも疑惑の色が濃くなっており、憎たらしさを増幅させた。
「もしかして、一人?」
視線こそ訝しむようであるが、口振りはひどく友好的だ。その振る舞いすらもミラにとっては腹立たしく、前髪に隠れた眉間のシワがまた一本増える。
……ほんとうに嫌いだ。眩しすぎるその金髪も、世界に愛されたような物腰も、全部。ただ同じ空気を吸うだけでも旅人への嫌悪感はどんどん強まっていき、ミラの口調もずいぶんと乱暴な、吐き捨てるものへと変わっていく。
「見ればわかるでしょ」
「相変わらずだね。……ねえ、あのさ。私、あなたにずっと聞きたかったことがあるの」
静まり返った湖の真ん中にひとつ雫が落ちたような、波紋じみた言葉を落とされる。
……どうせ、わたしが何を言っても結果は変わらないんだろうな。半ば諦めたようにため息を吐きながら、ミラは旅人の続きを待つ。きっとその先の未来で自分はまた後悔するのだろうと、半ば確信めいたものを抱きながら。
ミラの暗んだ視線にも、旅人はいっさい動じない。それどころか金瞳の輝きはより一層強さを増し、まっすぐにこちらを見据えてきた。
「私たち、前にも会ったことがあるよね?」
「……稲妻でのこと?」
「ううん。違う。もっと前。私がパイモンと一緒にこの世界を歩きはじめてすぐのことだよ。……そう、それこそ『龍災』が――」
「やめて!」
突然声を荒らげたミラには、さしもの旅人も驚愕を隠せないようだった。それまで静かに見守っていたパイモンも怯えながら彼女の背中に隠れ、こちらの様子をうかがうように何度も顔を覗かせている。その幼気なすがたもミラの怒髪天をつき、まだあどけなさの残る眉をひときわつり上がらせた。
「……ごめん。聞いちゃいけないことだった?」
「そんなのッ、見ればわかるでしょ!? ほんとに最悪……! そもそも、なんでこんなときに限ってあなたに会うの!? せっかくタルタリヤと二人で楽しく過ごしてたのに、あなたのせいで全部めちゃくちゃになっちゃった!」
――ひくり。旅人の眉が跳ねるのを、ミラの瞳は見逃さなかった。
「そんなこと言われる筋合いはないかな。私だってあなたたちのことを追ってきたわけじゃないし、むしろ先に話しかけてきたのはタルタリヤのほうじゃない」
ミラの身勝手な物言いに、旅人は顔をしかめている。
日頃朗らかに笑っているぶん、あからさまに厳しくなった表情には歴戦の圧を感じさせた。金瞳は怪訝さに加えて不快感も忍ばせるようになり、なおのことミラを責めるようにきらめく。
「私が何かしちゃったなら謝る。でも、今回に限ってはいくら考えても思い当たる節がないんだ。そもそも、あなたに対して何かするタイミングなんて――」
「うるさい!」
――こんなの、ただの癇癪で、八つ当たりだ。おのれの愚かさは自分が一番わかっているが、先立ってからミラの口は本人の意志に反して勝手に動き続けるばかりである。
反省しない、学ばない、そんなのただの愚か者だ。このままでは今度こそタルタリヤに見限られてしまうかもしれない。未曾有の不安はミラの情緒をめちゃくちゃにかき乱して、涙という形でそれを溢れさせた。
「さいあく……もう、全部――」
何もかもが最悪で、最低だ。現状はもちろん、醜い自分も。とまらない涙を子供みたいに拭いながら、ミラは旅人に背を向ける。最後に目の端に映った旅人は驚愕と嫌悪を綯い交ぜにしたような表情を浮かべていたけれど、今のミラにとってはそんなものどうでもよかった。
――あの頃に戻ったみたいだ。タルタリヤに拾ってもらう前の、脆くて弱い「わたし」に。死にたくて消えたくて仕方のない苛立ちを背負いながら、不安だけを無視して生きていたあの頃に……
地団駄を踏むようにあるく町並みは、その沈黙でもってミラの心をやさしく撫でてくれたけれど、今の彼女にその慈悲を受け取る余裕は欠片もなかった。
書いててほんとに心苦しい話だった
2025/06/08
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