親愛なる君へ

 彼女の寝顔を見るのはこれで三度目になるだろうか。眠っているとそのあどけなさはひときわ強まり、その内に秘めている「争いの種」なんて微塵も感じさせない。
 腕のなかで寝息を立てはじめた彼女をそっとベッドに寝かせたあと、隣に寝転がってみたり、ベッドの周りを歩いてみたり、ソファの上で目を閉じてみたり――いやに落ちつかない、眠気を放り捨てたような夜もすがら、俺はずっと思案に耽っている。睡眠不足は戦士の敵だが、どうしてだか今夜ばかりは眠気の足音すらいっさい聞こえてこなかった。
 ――正直なところ、驚いているのだ。ここまでの強い感情を、この少女へ抱いたことに。
 キャッツテールで初めて会ったときは、どこにでもいる取るに足らない人間としか思えなかった。これといって印象にも残らない、俺の人生に食い込んでくるはずもないであろうただの通行人。それが、彼女にたいする俺の「第一印象」だった。
 ところが、その華奢な肩とすれ違った刹那、俺の腹の底に言いようのない感覚が膨れ上がる。あれがすべての始まりだ。解像度の低い人混みのなか、その瞬間だけ俺の心臓がひどく大きな声をあげたのだ。弾かれるようにすぐさま振り返ってもその正体は掴めないまま、俺の諸用はあっさりと終わった。そうしてもやもやとしたしこりだけを残して時は過ぎ、やっとのことで再会したのが数ヶ月前のことだった。初対面より何倍も陰鬱とした闘争の匂いをまとわせながら、彼女は再び俺の前に現れたのだ。
 しかし、念願の再会を果たしたと思った矢先、彼女は俺の前から忽然と消え、今度は名状しがたい喪失感を残していった。彼女の宿泊していた旅館で従業員からチェックアウトを伝えられたときの衝撃は、今もこの胸の奥にしっかりとこびりついている。
 その結果、今やこんなふうにあの手この手を使って彼女の居場所を突き止めて、国を越えて追いかけるまでになってしまった。我ながら思い切ったことをやった自覚はあるが、前述のとおりこの強行には俺自身が一番驚いている。
 赤の他人であったはずの彼女が抱え込んでいた、魅惑的な「争いの種」。気づかぬうちに、俺はその甘美な香りにひどく惹かれていたのかもしれない。
 
 しかし、とはいえだ。そうまでするような相手のくせに、どうして俺は彼女からの「すき」に強烈な違和感をおぼえたのだろう。彼女の心根の奥にある平穏の香りが俺の刃を鈍らせる気がして、ほんの一瞬、躊躇ってしまった。自分のなかに生まれた感情をうまく噛み砕くことができなくて、その結果、彼女を傷つけてしまったらしいのだけれど――
 正直に言えば、こうして彼女を繋ぎ止めた今でも、その答えは出せていない。彼女という人間にたいする感情について、うまく整理がつけられないのだ。
 有り体に言うならば、きっと一度は「冷めた」のだと思う。彼女から俗っぽい視線を向けられていたことについて、ほんの少しだけ、落胆した。俺が彼女に求めていたのはそういったものではなかったからだ。
 俺の見ていた「争いの種」はあの瞬間に枯れたのだと、当時の俺は直感した。
 そう思っていたはずなのに――否、なんなら一度俺の頭から彼女の存在は消えた。彼女のいない日々に再び戻って、変わらず璃月で「執行官」としての職務を全うした――結果俺は璃月における大悪党になってしまったわけだけれど、その職務を終わらせた途端、クリアになった脳内に再び彼女という芽が出たのだ。
 枯れたはずの種は未だその力を失っておらず、地中の奥深くから俺のほうへと手を伸ばしてきた。その類稀なる生命力に、俺は今度こそ魅せられてしまったのかもしれない。
 それを自覚してからは早く、俺は部下にありったけの情報を集めさせ、予想外にも「召使」からの助力を受けながら彼女のもとへとたどり着き、こうして今に至るというわけだ。
 ……もっとも、フォンテーヌの海中にて再会した彼女からは、以前感じた違和感などすっかりなくなっていたが。

(ほんと、どうしちゃったんだろうなあ)

 俺の気も知らないですやすやと眠る、まるい頬をやさしく撫でる。真っ白な肌には痛々しいほどの涙の痕が残っていて、透明な筋をなぞるように指を這わせると、繊細なまつ毛がふるりと震えた。
 ぱち、ぱち、頼りない瞬きが何度か繰り返される。カラスの色をしたまつ毛は、氷のように透き通った碧眼をそっと守っているようだった――きれいだと、直感的にそう思う。スネージナヤの堅氷を思わせるその色は、俺の胸の底に秘めた郷愁の念をやんわりと刺激する。

「ん、おはよう。どう、よく眠れた?」
「う……、? ぁ、え、なんで……」
「なんで、ってなんで? 俺のことわかんない?」

 忙しない瞬きをする瞳はあふれんばかりの困惑に染まっている。慌てふためく彼女は――ミラは俺の手から簡単に離れて、勢いまかせに飛び起きた。あっという間に遠ざかった体温を名残惜しく思うなんて、そんなのテウセルやトーニャを乗せていたときくらいだったはずなのに。
 ミラは部屋のなかを何度も見まわしたあと、こわごわとした表情で俺のほうを振り返る。はくはくと揺らぐ唇から、彼女の動揺の程がしっかりと伝わってきた。

「ゆ……夢、じゃ、ないんだ」
「うん? なに、俺が迎えに来たこと、夢だと思ってたの?」
「だ、だって――」

 言うやいなや、ミラはほろほろと涙をこぼしながら再びベッドへと戻り、俺の視界から逃げるようにシーツのなかへ潜っていった。丸くなって泣いているのがシーツ越しでも簡単に見て取れて、ほんの少し、おもしろくない。
 ――俺がここにいるのに。縋るべきは冷たく無機質な布切れなんかじゃなくて、いま目の前にいるこの俺じゃないのか?
 俺が眉間にシワを寄せながらまんまるのシーツに近寄ると――ミラには俺の表情なんて見えてないだろうけれど――丸い物体はちいさくびくついて、今度はすすり泣くような声をあげはじめた。宝盗団に襲われて泣いていたあの日の影が、丸くなった背中に重なる。
 俺の胸に湧き上がるのは、不満が半分と、いたたまれなさが半分だ。俺は丸いそれを少しばかり乱暴に抱き上げて、再び膝のうえに乗っけてやる。そうすればぐしゃぐしゃの泣き顔を目に入れることができると考えたからだ。
 予想通り、俺の行動についていけないらしいミラはシーツの隙間から顔を覗かせて俺のほうを見ていた。その表情は困惑の二文字そのままであり、まるで捨てられた野良犬のようだ。一周まわって笑えてくるのをぐっとこらえる。
 ちいさな塊を膝のうえでそっと抱きしめて、細い背中を何度も撫でてやる。思えばいつもこうやって、泣いた彼女をゆっくり宥めていたっけ。

「君がどう思ってるのか知らないけど、今ここに俺がいるのは夢じゃない。現実だよ。海の底で溺れてた君を助けたのも俺」
「ど、して」
「言っただろ。君にどう思われていようと、俺は君をどこへだって連れて行くつもりだ、ってね」

 俺がまっすぐにそう言うと、ミラは声にならない声をあげて、再び大粒の涙を流しはじめる。しゃくりあげる様子はひどく痛々しくて、彼女を抱きしめる腕に自然と力がこもってしまった。
 泣きじゃくる子供をひたすら宥めながら、カーテンの隙間から射し込む陽射しをぼんやりと見つめる、無駄なようでひどくおおきなひと時。それが、俺と「ミラ」の過ごした初めての朝だった。

 
  ◇◇◇
  
 
 ぐずるような泣き声が聞こえなくなったのは、窓の外が徐々に騒がしくなってきた頃だった。腕のなかの丸い物体は居心地が悪そうに体を揺すりはじめ、俺の腕から逃れようとする。
 本当なら離したくなんてないけれど、まあ、このまま抱きしめつづけているのは現実的じゃない。俺が渋々両手を離すと、ミラはそのままおずおずと膝の上から離れ、シーツにくるまったまま俺のことを見つめてくる。ぐちゃぐちゃになった顔を隠そうとしているのだろうが、そんなもの俺にはバレバレだ。

「どうしたの、ミラ。何か言いたいことでもある?」
「……それ、なに」
「え?」
「だから。その……『ミラ』っていうの、なんなの」

 ――確かに。俺はおのれの説明不足を自覚して、ぽん、と手のひらに拳を置いた。ごめんね、と断りを入れると、ミラが複雑そうに俺のことを見ているのが目に入る。
 期待と警戒が入り混じったような目だ。彼女という子は本当に、野良犬か、もしくは気まぐれな猫のような振る舞いをする。

「君の名前だよ。新しい名前。……ほら、せっかく新しい君になるんだし、そのほうが気分も変わっていいだろう? 名前なんて所詮はただの記号でしかないけど……門出を祝う気持ちも込めてさ。俺から君への最初のプレゼントだよ」

 おのれの意図を素直に口にしながらも、この胸には再び疑問の雪が降りつもっている。
 ――どうして、彼女に名前なんてものを贈ろうと思ったのだろう。大切なのは本質だ。何を思い、何を見て、どんなふうに歩み進んでいくかに人間性は現れる。だから、どんな名前を名乗ろうとそれがその人を表すものにはなり得ないのに、俺の口は自然と彼女に新しい名前を与えていた。彼女という人間を定義するための新たな記号を、無意識のうちにこの口から吐き出してしまっていたのだ。その文字のみならず、大層な意味まで込めて。
 おのれの行動には甚だ疑問が残るが、もしかすると彼女という人間に新たな記号を与えることで、俺のそばから離れられないよう、もう二度とその姿を消してしまうことがないよう、どうにか仕向けたかったのかもしれない。
 知らぬ間に育ったらしい執着じみたそれを自覚して、ため息のひとつでもこぼれそうになったが――今この瞬間にそれは相応しくないだろう。俺は疑問を腹の奥に一度沈めて、ミラの頭に手のひらを置いた。

「プレゼントといえば、他にもいくつか贈りたいものがあるんだ。明日にはここを発って璃月に戻るつもりだし、今日のうちにショッピングがてらフォンテーヌを見てまわろう。二人でなら楽しいだろうしさ」

 俺の提案に、ミラはぐずついた顔を見せながらもちいさく頷いたのだった。

 
今回からタルタリヤ視点です
2024/08/11