夢の蕾とふくらんだ種

 思わず目で追ってしまうような、唯一無二の背中があった。
 凛とした立ち居振る舞いがひどく目を惹くその人は、騎士然とした柔和な笑みと勤勉な態度が印象的で、ハーネイアはまたたく間に彼の虜となってしまった。……もっとも、彼がモンド中の注目の的であるディルック・ラグヴィンド本人だと知ったのは、初めて彼に手を引かれた日の帰り道のことだったが。
 ディルック様は本当に素晴らしいお方なんだから――今までついぞ見たことがないくらいハツラツと、どこか自慢気に話す母の横顔は、あれから数ヶ月が経った今でも鮮明に思い出せる。
 物影に隠れながら彼の背中を追う今ですらもその話を反芻してしまうくらいには、様々な意味で印象深い一日だったということだ。

 
「その気配は……ハーネイア、かな?」

 突然名前を呼ばれて、大げさなくらいに肩が跳ね上がる。思わず転びそうになった足元をなんとか整えて、ハーネイアはおずおずと、ベンチからは死角であるはずの物陰から姿をあらわした。

「ば……バレちゃいました、か」
「もちろん。君の視線はすぐにわかるよ」

 ベンチに座っていたディルックは穏やかにハーネイアの名前を呼び、もじもじと恥じらう彼女を自分のもとへと手招く。慎ましいながらもどことなく有無を言わさぬように感じるのは、ハーネイアの胸の奥に灯る炎のせいであろうか。
 灯火でもあり、陽だまりでもある。柔らかな笑みを前にしては、断るなんて選択肢はすっかりいなくなってしまった。

(ディルックさまは、今日もかっこいい――)

 優しい炎に目を焼かれるような感覚をおぼえながら、ディルックのそばに近寄ったとき。ハーネイアの目に留まったのは、彼の胸ポケットに刺された一輪の花だった。……彼は時折こんなふうに花を刺して歩いている。決まってモンド城の見回りのときがそうなのだと、母がちらりと溢していた。
 ディルックさま、と拙い言葉で問いかけると、彼は相変わらず微笑んだまま、ハーネイアの望む答えを返してくれる。

「あそこの花屋、前を通るたびにこうして一輪くれるんだ。……ああ、君と出会ったときに刺していたセシリアの花は、うちで採ったものだけどね」
「……ディルックさまのおうちは、セシリアの花がとれるんですか?」
「うん? ああ、そうだよ。うちは、セシリアの花がたくさん咲いてる庭園を管理していて――」

 どことなく誇らしげに庭園のことを話すディルックの様は、甘ったるくとろけたハーネイアの瞳に焼けつくような錯覚を起こさせる。

「というか……そこに目をつけるなんて、ハーネイアは花に詳しいんだね」
「え……あ、へへ。そうなん、です。えへへ……」

 感心したような様子のディルックと、照れくさそうに笑うハーネイア。肩をすくめる彼に真実を告げる勇気は、今のハーネイアにはなかった。
 ……べつに、元から花が好きだったわけじゃない。嫌いなわけではもちろんないけれど、取り立てて目を奪われるような子供ではなかったはずだ。ただ人間とはひどく単純なもので、あの日ディルックから贈られた花をきっかけにして、ハーネイアは「花」というものに強い関心を抱くようになってしまったのである。
 今となってはセシリアの花をはじめとしたモンドに咲く花々について勉強しはじめる始末であり、近頃は璃月の琉璃百合や霓裳花などにも興味津々となっている。幸いにも祖父が璃月出身の人間であるため、知識の出処には困らない。
 きっかけこそ不純であるが、気づけば花屋の店員とも懇意になってしまうくらい、ハーネイアの好奇心は開花前の蕾のごとくふっくらと膨らんでいた。

「わ……わたし、いつかお花屋さんになりたくて」

 動機こそ話さないでいるけれど、これからのことはすべて心からの本音だ。
 うつむきながらつむぐ答えを、果たしてディルックはどんな顔をして聞いてくれるのだろう――ハーネイアは期待と不安を綯い交ぜにしながら、ゆっくりと語りはじめる。

「お花、見てるとおちつくし、元気になれるんです。だから、みんなもおなじように、お花を見てすこしでも元気になってくれたらいいなって。かなしいことや、さみしいことがあったときに、わたしがお花をプレゼントして、それで、いっぱいえがおになってくれたら、わたし、すっごくうれしいから――」

 懸命に夢を語る最中、ハーネイアはひどく不自然に言葉を切る。理由は他でもない、文字通り唐突に我にかえってしまったせいだ。いきなり饒舌に喋りだした自分が憐れなほど恥ずかしい人間のように思えてしまい、あまりの羞恥によって、なんとなく体温も上がったような気がする。
 も、もう、耐えられない――居ても立ってもいられなくなって顔を上げるが、意外にもディルックはさっきと変わらぬ優しい笑みを湛えたままだった。彼はハーネイアの夢をからかうことも否定することもせず、ただひたすら、静かに耳を傾けてくれていたようだ。

「じゃあ……いつか君が花屋になったら、僕もお花を買いに行こうかな」

 ディルックの言葉は、幼子の心を優しく包み込むように降りそそいでやまない。大好きな人からもたらされるそれは、まるで泣きそうになるくらいの喜びでハーネイアの胸をいっぱいにした。
 こぼれそうな涙をなんとか抑え込んで、ハーネイアは口を開く。

「ほ……本当、ですか?」
「もちろん。さすがに毎日は無理かもしれないけど、できるだけたくさん会いに行くよ。……君の夢を応援する。だから絶対に叶えてほしいな」

 ほら――約束だよ。言いながら、ディルックは小指を差し出して、ハーネイアと指切りを交わす。
 どこまでも優しい灯火の騎士の振る舞いは、幼い少女の恋心を燃え上がらせるには充分すぎる。指切りをかわす合間に、ハーネイアの頬はまるで炎元素でも浴びたかのように真っ赤になってしまったのだった。

 
  ◇◇◇
 

(――なんて約束、ディルック様が覚えてるわけないよね……)

 店先に並ぶ花を吟味するラグヴィンドの貴公子を横目に、ハーネイアは人知れず頭を悩ませていた。
 ここはモンド城の城門近く、フローラの営む花屋の「花言葉」だ。自分の花屋をひらくという夢はまだ叶えられていないものの、それでも「花屋でバイトを始める」という、夢に向けての大きな一歩をハーネイアは確かに踏み出していた。
 ……ディルックは、時おり花屋にやってくる。エンジェルズシェアに飾るためだとか、ワイナリーの職員に贈りたいとか、はたまた屋敷の庭木についての教えを乞うためだとか、色んな理由を携えては、こうして定期的に足を運んでくれるのだ。
 彼の真意はわからない。ただ本当に、たまたま花屋に縁がある人なのかも。
 それでも、ハーネイアの胸の奥にはあの日の約束の温度と、彼の微笑みが残っている。まぶたを閉じれば彼への恋心ばかりが溢れ出て、そこにある存在を感知するたび、ほんの少しだけ体温が上がる。
 すべて燃やし尽くされそうなくらいの気持ちが、あれからずっと、絶えず胸の奥で燃え盛っていた。

「そうだな……では、イグサとスイートフラワーの花束を頼めるだろうか」
「ふふっ、わかったよ。……そうだ、今日はカスミソウもあるから、これも少し添えておくね」

 店長のフローラがテキパキと応対している。彼女は幼い子供のように見えるが、しかし相手が誰であろうと萎縮することはなく、堂々と店主としての役目を全うしていた。
 いつも穏やかでのほほんと笑っている彼女のことを、ハーネイアは人としても上司としても、このうえなく尊敬している。

「……そうだ、今日はハーネイアに花束を作ってもらおうかな。最近ずっと練習してるもんね」
「えっ――わ、わたしですか……!?」
「もちろん。大丈夫だよ、あなたならきっとできるから」

 フローラの笑顔に促されて、ハーネイアは彼女の期待に応えるべく、用意された花たちに向き合う。接客とは別の机に包装紙たちを並べて、脳内で花束のデザインやバランスを考えるのだ。
 隣ではディルックとフローラが世間話をしているのが聞こえてくるが、しかし、そちらに耳を傾ける暇もないほど、ハーネイアの意識は一気に花束へと集中する。
 花々の高さを揃え、包装紙にあうリボンを取り出し、きれいに巻いて、整える。カスミソウによってイグサとスイートフラワーをうまく引き立てられたように思うし、場所も人も選ばない、均整の取れた花束が出来上がった……はずだ。
 緊張を拭いきれないまま、出来上がったそれをディルックへ手渡す。ひどく丁重に、壊れ物でも扱うような手つきで受け取られたそれは、彼の衣装と髪の色にもよく似合っているように思えた。

「ありがとう。……うん、いい香りだ」
「えへへ……『花言葉』のお花はとっても素敵ですから。またいらしてくださいね」
「もちろん、必ずまた来るよ。――あのとき約束したからね」
「えっ……あ、あの――!?」

 ハーネイアが聞き返すよりも先に、ディルックは小さな会釈だけ残してさっさと城門のほうへと歩いていってしまった。
 成人男性の歩幅はぼうっとしている間にどんどん背中を小さくして、ショートしかけた脳みそを叩き起こす前に、とうとう追いかけることすら億劫になるほど遠くなる。

(ディルック様……もしかして、あのときのことを覚えてくださってるんですか……?)

 それを尋ねる勇気はまだない。確信を持つことも、夢を見るようなことも。
 けれど、“もしかして”を期待するに十分すぎるほどの種が静かに蒔かれたような予感を、いま確かにおぼえている――

 
2023/04/18