一緒に帰ろう

「今日の蒲公英たち、いつもより立派に咲いてて素敵ね」

 店先に並ぶ蒲公英を丁寧に手入れしながら、満足そうにフローラが言う。
 イグサやセシリアの花を並べる傍らでそちらに目を向けてみると、確かに本日の蒲公英は普段より元気そうに見えた。先日新しくした肥料と相性が良かったのだろうか? 瑞々しく咲う花々は、それだけでハーネイアの心をあたたかくしてくれる。

「これだけ元気なら、きっとたくさんの綿毛が飛んでいっちゃいますね。……ねえねえ、ハーネイアも見て! ほら、この鉢なんて特に――」

 爛々としたドンナから鉢植えを受け取る。二人の言うとおりそこにはひときわまばゆく咲き誇った蒲公英が植えられていて、思わず感嘆の声が漏れた。
 風に揺れる花びらはまるで歌っているようで、耳を澄ましていると聖歌隊の声が聞こえてきそうだ。

「すごい……! わたし、こんなにきれいに咲いてる蒲公英、初めて見たかもしれません」
「ふふっ、だよねえ。フローラもとっても嬉しいんだ。このままふわふわ〜って、立派な綿毛をつけてくれるといいなあ」

 フローラの言葉に肯定を返しながら、鉢植えを改めて店先に並べていく。通行人によく見えるよう、均等な間隔で、見栄え良く――しゃがみこんでじっくりと観察を続けているうち、ふと、蒲公英の花びらにだぶついて、かつての記憶がよみがえった。ずっしりと重くのしかかるそれは、数年前、たった一人で真っ暗闇をさまよっていた頃の記憶だ。
 あれは、青天の霹靂じみた事故のあと。この広い世界のなか、ハーネイアは突如としてたった一人放り出された。
 大好きな家族も、あたたかな家も、優しかったはずの世界も、あの日にすべてなくしてしまった。当時は本当に何も見えなくて、ただひたすら訳もわからぬまま、惰性で生きていたように思う。
 さみしかったとか、つらかったとか、苦しかったとか、そんなひと言では表せない、表したくもない日々。近頃はずいぶんと元気になったけれど、それでもハーネイアの胸の奥に、あの日の痛みは突き刺さったままだ。

(あの頃は、蒲公英を……蒲公英の綿毛を見るのも、つらかったっけ)

 風神の民は、死後蒲公英に姿を変える――モンド人は皆、その教えを信じている。幼い頃にはきらめいて見えたあの綿毛も、今のハーネイアにはまるで、璃月の「霄灯」のようだ。
 風が綿毛と共に運んでくるのは、決して喜びだけじゃない。
 あの頃は、どこか風が恐ろしかった。少しでも風が吹けばみんながどこかに行ってしまうかもしれない、今度こそわたしのことを置いて行ってしまう……そんなことばかりを考えて、大好きだったモンドの爽風にすら怯えて過ごしていた。
 そして、当時の恐怖は今も心の片隅に残っている。
 もしかすると、いま目の前にある蒲公英にだって、誰かの想いが宿っているのかもしれない。地脈に還るまでのつかの間、薫風を浴びて死の痛みを癒やしているのかも。こうして立派に咲き誇る花の裏にも、あるいは誰かの悲しみが隠れているのかもしれない――
 様々に思考を巡らせられるのは、視野が広がり、人生に厚みが加わったことの証左なのだろうが、その厚みは時として、誰かの手をとめてしまうことがある。
 現に今だって、ハーネイアは立ち並ぶ鉢植えにぼんやりと手を添えたまま、音のしない世界に足を踏み入れそうになっている。

 
「ハーネイア」

 ――刹那。まるで灯火のごとく、優しい声が頭上から降りそそぐ。
 その声を認識した途端、先立ってまで消え失せていた雑音が一気に耳へと流れ込んできた。風のささやき、黄色い声、穏やかな喧騒――それらはハーネイアの意識をしっかりと引き戻し、彼女の呼吸を取り戻させた。
 どくりと激しく音を立てた鼓動に導かれるまま、弾かれるように顔を上げる。そこにいたのは、ハーネイアが誰よりも大切に想う人だ。

「でぃ、ディルックさん……! あ、わ、わ、すみません、わたし、全然気がつかなくて……」
「構わないよ。集中していたようだったから、声をかけるか迷ったんだが……なんとなく、様子がおかしい気がしてね」

 瞬きを繰り返すハーネイアと目線をあわせるように、ディルックはその場にしゃがんでくれる。
 かつては畏怖の象徴であった赤が、視界の真ん中に鎮座する。しかし、そこに恐れはない。ディルックの「赤」がハーネイアを加害することは今まで一度もなかったし、彼の炎はハーネイアを暗闇からすくい上げ、何度だって道を指し示してくれた。ハーネイアの大好きな温度だ。
 締めつけられるような胸の痛みを抑えながら、静かにディルックの言葉を待つ。

「諸用でモンド城まで来ていたんだが、思ったよりも早く用が終わってね。今からワイナリーに戻るところなんだ。調子が悪いなら一緒に帰ろう」
「あ……え、えと、」
「うそ、調子悪いの!? それならはやく言ってくれたらいいのに……! ここは私とフローラさんでやっておくから、無理しないで帰ったほうがいいよ」

 せっかくのディルック様のご厚意を無駄にしちゃダメだよ――ドンナの後押しによって、口を挟む間もなく早退が決まる。ありがたいような申し訳ないような複雑な面持ちでいると、何かを察したらしいディルックがフローラへと声をかけた。
「この鉢植えをもらってもいいだろうか」ハーネイアの抱えていたそれを見るディルックの声は落ち着いている。訳のわからないまま三度ほど瞬きを繰り返すと、ディルックはうんと優しく目を細めながら、言った。

「連れて帰ろう、一緒に」

 慈愛に満ちた微笑みによって、胸の奥がぎゅうと熱くなる。
 彼の意図はわからない。何を思い、何を考えてそう言ったのかなんて、尋ねなければ知る由もないことだ。
 けれど、そこに彼の思いやりが込められていたことは確かだった。ハーネイアの手から植木鉢を受け取ったディルックは、支払いを手短に済ませたのち、静かに手を差し伸べてくれる。

「馬車を待たせてある。荷物をまとめておいで」
「っ……はい!」

 滲みそうになった視界を振り払うように、ハーネイアは花言葉のなかへと戻る。
 きっともう、蒲公英の綿毛を見て苦しむことはないのだろうという、確信を胸に忍ばせながら。

 
2025/06/16

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