あなたをあなたと呼べるまで

 今日のアカツキワイナリーには予想外の来客があった。――否、彼は本来であれば「来客」ではなく、ただ久しぶりに「帰ってきた」だけだ。
 モンドではあまり見ない褐色肌と、特徴的な眼帯。どこかエキゾチックな容姿をしたその人は、かつてディルックと共にこの屋敷で育った男、ガイア・アルベリヒである。
 何の知らせもなく訪れた彼にワイナリーの使用人たちは皆それぞれにざわついていたが、誰一人として彼の来訪を不快に思った者はいなかったし、その目的を訊ねるようなこともしなかった。そんなのは野暮な質問でしかなく、そもそもとして彼の意図はほとんど明白だったからだ。
 ガイアの目的はただひとつ。最近ワイナリーに住まうようになった新入りで、あのディルックが連れ帰ってきた少女――ハーネイアの顔を見ることだろう。
 
 もっとも、ガイアとハーネイアは別に他人というわけじゃない。それこそディルックと同じように昔から付き合いであるし、ディルックがモンドを不在にしていた頃は、彼の代わりのようにガイアがハーネイアの様子を見ていた。誰に頼まれたわけでもないその行動は、もしかすると義兄に対する贖罪の意味もあったのかもしれないが。 
 ガイアは見る人によって印象ががらりと変わる男だ。ある酔っ払いは彼を気さくな人間だと言うし、ある商人はどこか胡散臭い男だと言う。またある騎士団員は頼りになる騎兵隊長として、彼のことをひどく尊敬していると目を輝かせていた。
 ハーネイアにとってのガイアがどんな人なのかというと、それは今も昔も変わらない、ただの「優しいお兄さん」である。ディルックととても仲良しで面倒見の良い人という印象は、ここ数年でちっとも変わっていなかった。
 そんな彼だからこそ、ハーネイアは此度の帰還をとても好意的に解釈している。ディルックの顔を見にきたのはもちろん、おそらくは自分のことも気にかけてくれているのだろうと。そうして広い視野で周りに気を配っているからこそ、ガイアはいつまでもワイナリーのみんなに好かれているのだ。
 久しぶりに話ができて嬉しいと言えば、ガイアは自分も同じだと返してくれるし、にこやかな談笑に励んでくれる。そういった付き合いの良さも彼の魅力のひとつだと、ハーネイアは考えていた。
 
 そうしてしばらく歓談に勤しんでいた頃だった。何かに気づいたように何度か瞬きを繰り返したガイアが、そそくさと帰る支度をはじめたのは。
 唐突にそわつきはじめた彼に声をかけると、ガイアは肩をすくめながら、くるりと身を翻す。

 ――それじゃあ、俺はそろそろお暇させてもらうとするか。……ハーネイア、くれぐれも気をつけるんだぞ? あの旦那様は、お前自身が思ってるより何倍も、お前のことが好きみたいだからな。

 ガイアを隠すかのように閉じた玄関扉を見つめながら、ハーネイアは彼の忠告について静かに考え込んでいる。

(ガイアさん……『気をつけろ』って、何のことだろう)

 まだワイナリーに来て日は浅いが、今のところディルックに何か変なことをされた覚えはないし、今までどおり優しく接してもらっている。もちろんそれはディルックのみならず、ワイナリーの使用人や従業員に関してもそうだ。
 ゆえに彼の忠告に関して思い当たるような節はないが、しかし、かつてディルックと双子のように育ったガイアの言うことなのだから、完全に無下にするわけにもいくまい――そうして思考に区切りをつけて振り返ろうとしたときだ。自分の身にふりかかっている、ちいさな「異変」に気がついたのは。 
 後頭部に視線が刺さっているのは、おそらく気のせいではないのだろう。それはやけに熱心なふうで、じっとこちらを見つめている。
 責めるようではないが、どことなく居心地が悪い――不快なわけではないのだけれど――問いつめるようなそれに耐えかねて、ハーネイアはおそるおそる視線の主のほうへ振り返る。そこにはいつも通りのポーカーフェイス……に、微かな不満を滲ませたディルックのすがたがあった。

「あ、あの……ディルック様?」
「なんだ」
「えっと……その、わたし、何か粗相を……?」

 こんなとき、どんなふうに話を切り出せばいいかわからない。今までであれば特に意識はしなかったかもしれないが、ここしばらくで自分たちの関係はすっかり様変わりしてしまったから。
 ただ憧れるばかりだった人が、同じ気持ちを返してくれるようになった。炎よりも熱く、灯火よりもあたたかな愛を、この身に降らせてくれるようになった。それどころか彼の住まう家へと招き入れてもらって、あろうことか一緒に暮らすことを許される身分にまで至ってしまったのだ。
 まるで何かのおとぎ話と見紛うような激動の日々を、ハーネイアは過ごしている。それは身に余るような幸福であり、その幸甚のひとつひとつを噛みしめながら毎日を送っているのだが、おかげで少しずつわからないことも増えていった。そのひとつがディルックとの接し方だ。
 良くも悪くも「今までどおり」が許されなくなってしまった。自分たちはもうただの知り合いではなくて、共に暮らす人、思いを通じあわせた恋人同士なのである。どうやらディルックがこちらに向けてくれる愛情は自分の想像よりも大きいようで、その慈愛に触れるたび、まるで寿命が縮むような喜びを得てしまうのだ。
 ディルックはとても優しい人だ。急かすようなことはしないし、紳士的な態度でもって、ハーネイアにあわせてくれる。しかし時おり暴君じみた愛情をぶつけてくるときがあって、そのたびにハーネイアは目をまわしてしまうのが常だ。
 彼の愛情が嫌なわけじゃない。与えられるものは余さずすべてハーネイアの「幸せ」だし、彼がもたらすものを不快に感じたことはない。ただその愛情の大きさに飲まれた結果、たまに呼吸の仕方を忘れるときがあるだけだ。
 きっと今回も「そう」なのだろうと思い至り、ハーネイアはおずおずとディルックの顔色を窺う。ほんの少し子供じみた素振りを見せる彼は、わずかに口を尖らせて不満気な声を漏らした。

「……ハーネイア。わかっているとは思うが、僕たちの関係は何だ」
「えっ!? え、えぇと……それは……こ、こいび――」
「そうだ。僕たちはもう他人じゃない。ずっとそばにいると誓いあった仲だね?」
「はい……」
「なら、そろそろその『ディルック様』はやめたらどうだ」
「えぇっ!?」

 ぎゅ、と眉間にシワを寄せながら、たしかにディルックはそう言った。どうして急にそんな、と思った矢先、彼の視線が一瞬だけワイナリーの玄関口へと向けられたことにより、ようやっとすべてを察することができた。……ガイアが言っていたのはこれだ。

「……昔からそうだ。君はガイアのことは『ガイアさん』と呼ぶくせに、僕のことはそうじゃなかった」

 拗ねたような表情と共に続けられたその言葉には、もしかすると年単位で蓄積された何かがあったのかもしれない。小さな不平が今この瞬間に爆発しただけで、ディルックは何年もずっと、こんな些細な問題を気にしていたのかもしれないと思い至る。……否、些細だと思っているのは自分だけで、ディルック本人からしたらこれはきっとひどく大きなことなのだ。
 途端、ハーネイアの胸には罪悪感と共に愛おしさが溢れてしまった。いくつも年上で大人の彼を――余裕があるようでいて、ちょっとだけヤキモチ妬きで子供っぽいところもある彼のことが、ひどく可愛らしい人に見えてしまったのだ。
 思わず笑みがこぼれてしまったハーネイアを前にして、ディルックはぷいと顔を背けた。もはやその仕草すらも可愛くて仕方なくて、ハーネイアは思ったままの言葉を口にする。

「えっと……ごめんなさい。ディルック――さん、は、格好良いだけじゃなくて、可愛らしいところもあるんですね」
「ふん……どうだかな。ここにいるのは、ただみみっちい嫉妬をぶつけるだけの情けない男だぞ」
「そう、ですか? ……でもわたし、ヤキモチ妬きのディルックさんのことも大好きです」

 ハーネイアからの呼称の変化のせいか、ディルックは先立っての不満そうな態度はどこへやら、あからさまに声色を明るくする。やがては顔中に愛おしさを溢れさせたハーネイアを抱き寄せて、その額へ口づけを落としてくる始末だ。

「えっ……あ、わ、わあ……!?」

 突然触れられたそれにハーネイアはひどく動揺して、まるでリンゴのように頬を真っ赤に染めた。
 抱き寄せられるだけでもいっぱいいっぱいになるくらいなのに、まさか、お、おでこへ――! 口をはくはくして何も言えなくなった彼女を見て気を良くしたのか、ディルックはひどく満足気な顔をして体を離す。
 拗ねたように顔を背けたと思えば満ち足りたように笑うディルックと、愛おしそうな微笑みが赤面に塗り替えられたハーネイアは、いわばそれぞれ、静と動の百面相だった。

「……満足した。ガイアも帰ったし、僕もそろそろ職務に戻ろう」
「はひ……」
「今日は屋敷で書類を片づけるから、夕食は一緒に食べようか。アデリンに好きなものをリクエストしておくといい」

 言うだけ言って、ディルックはくるりと踵を返して書斎へと戻っていく。階段を登る背中は後ろ姿だけでも機嫌が良いことがわかって、ハーネイアは通りかかったアデリンに声をかけられるまで、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 

2023/11/13