スメールシティのささやかな大事件

 ――今日は本当についてない日だ。
 否、途中まではいつもどおり、平々凡々な一日だった。いつもどおり起きて、いつもどおりアビディアの森をパトロールして、いつもどおり魔鱗病や病床に伏す人々を診る。老若男女の苦しみをできるだけ取り除き、子供たちの無邪気な笑顔を浴びながら、いつもどおりの平穏な一日を過ごすはずだった。
 そんなありきたりかつ満ち足りた日常におけるひとつ目の「変化」は、コレイにシティへの同行を頼まれたことだ。なんでもグランドバザールを見に行きたいということらしいのだが、一人で行くのは不安なので俺についてきてほしいと。
 シティくらいなら一人でも平気だろうに、今更どうしてそんなことを――そんな不躾な質問は、コレイの表情や仕草を見た瞬間、すっかりいなくなってしまった。
 ひどく不慣れなデートの誘い文句は、正直ツッコミどころだらけだったが……懸命に言葉を紡ぐコレイが可愛らしかったので、しぶしぶといったふうだけ装って頷いた。俺が了承したときのコレイの表情は、きっと向こう数ヶ月は忘れることがないだろう。
 
 以降、念のためティナリに報告してから、俺たちは太陽が真上に昇ったあたりでガンダルヴァー村を出発した。ティナリは俺に対して「本当に大丈夫なの?」と心配してくれていたが、彼の気遣いをしっかり受け止めつつも、俺が歩みを止めることはなかった。
 俺のよくできた後輩は、俺がシティでどんな目に遭っていたかをよくよく理解してくれている。俺にとって、ティナリは一番の理解者と言っても差し支えないかもしれない。
 彼が案じるとおり、俺は普段極力シティに近づかないようにしているのだが、今回ばかりは例外だ。コレイに誘われたという事実によって、無意識ながらも浮き足立っていた部分もあるのかもしれない。
 たからこそ油断していたのだ。俺の浮かれた気まぐれは、最低最悪と言ってもいいくらいの、ふたつ目の「変化」をもたらしてくれた。

「……兄さん?」

 よりにもよって、今日という日にこいつなんかと出くわすなんて――その出会いは、グランドバザールでの買い物を早々に済ませ、プスパカフェにでも立ち寄るかと話し込んでいたときに起こった。
 さっきまでの楽しい気持ちはどこへやら、まるで天国と地獄のような落差が俺の視界をにごらせる。それもすべて、このテイワットで一番憎たらしく大嫌いな人間が、目の前で真っ赤な瞳を瞬かせているせいだ。

 
「兄さん、って……もしかして、先生の弟さん、なのか?」

 コレイは何度もまばたきを繰り返しながら、俺たちの顔を交互に見ている。俺は彼女の問いかけに答えることもできないまま、まるで石にでもされたかのように、言葉のひとつすら発することができない。
 この子のまっすぐな目に、俺たちはいったいどんなふうに映っているのだろう。他人の空似を疑うには、きっとあまりにも似すぎているだろうから。
 ――一卵性双生児。それが、生まれながらにして背負わされている俺の「呪い」だ。
 弟は――サティはコレイのことなど歯牙にもかけず、まっすぐ俺の目の前へと詰め寄ってくる。

「まさかシティに来てるなんて思ってもみなかった。なんで顔を出しに来てくれなかったんだ」
「誰が行くかよ……」
「父さんも母さんも兄さんのことを心配してる。もちろん俺だって、ずっと兄さんに会いたかった」
「――――」
「今は……ああ、その格好。そうか、レンジャーをやってるのか」

 喉が渇く。世界が一気に暗がりに落ちて、全身をおびただしい冷や汗が伝っているような錯覚をおぼえている。
 声を発するのも困難なほど、情けなくも俺は、こいつ相手に萎縮してしまっているらしい。

「あ、サティさんだ」
「ほんとだ! サティさん、こんにちはーっ」

 俺の当惑など知らない通りすがりのギャラリーが、無邪気にサティに手を振っている。好意的な彼女らに対してこいつが返すのは無愛想な会釈か、良くてちいさく手を振り返す程度なのだが、それでも彼女らはひどく喜び、笑顔のまま去っていく。
 無愛想で、無口で、堅物で、人付き合いも悪いくせに、なぜだかこいつの周りには自然と人が集まってくる。……俺とは正反対のその光景を、シティを飛び出すその直前まで、俺はまざまざと見せつけられてきた。
 俺は愛想を良くして、相手のことを覚えて、必死に話題を見つけて、なんとか人と交流することができているのに。見てくれだけは同じのくせに、どうして俺たちは――否、俺はこんなにもこいつに劣っているのだろう。
 込み上げる吐き気をなんとか抑えながら、俺はサティの目を見据える。一度でも目を逸らしたら取り返しのつかないことが起こるような気がして、ひどく恐ろしかったからだ。
 俺一人の問題ならまだしも、隣にはまだ幼いコレイがいる。近頃はずいぶん元気になってきたけれど、こんな男の前にそうやすやすと置いてはおくわけにはいかない――こいつにコレイを認知させたくないし、コレイの世界にこいつの存在を割り込ませたくなどなかった。
 叶うならすぐにでもここを去ってしまいたいけれど、俺の両足は歯がゆくもすっかり竦んでしまっていて、すぐには動けそうにない。ゆえに、俺のできることは目の前の忌まわしい半身を睨めつけることくらいなのだけれど――

「、コレイ――?」

 突如、俺の体は不自然に傾いだ。ぐらついた体のままに視線を動かすと、そこには唇を震わせながら俺の手を引っ張るコレイのすがたが見える。
 はく、はくと荒い呼吸を抑えながら言葉を紡ぐその振る舞いは、場違いにもひどく愛おしい輪郭をしていた。

「急にごめん、先生! あたし、買い忘れを思い出したんだ――ティナリ師匠とセノさんへのプレゼントなんだけど、一人で選ぶのも不安だから、もう一回付き合ってもらってもいいか……!?」

 返答をする暇もなく、コレイは脇目も振らずに俺の腕を引いて走り出す。
 あんなにちいさかったはずの背中が今だけはひどく頼もしく感じて、俺の視界はほんの一瞬ぐちゃりと滲んだ。

 
  ◇◇◇
 

「先生、本当にごめんなさい! いきなり引っ張ったりして、び、びっくりしたよな……!?」

 どれほどの距離を駆け抜けただろうか――案の定と言うべきか、コレイの向かった先はグランドバザールなどではなく、ガンダルヴァー村への帰路の方角だった。シティから抜け出してしばらくした頃、俺たちはようやっと足をとめ、荒くなった呼吸を整えるだけの余裕を手に入れた。
 隣にあるコレイは荷物を抱えながらおおきく肩を揺らしていて、懸命な仕草に再び場違いなことを考えそうになるのを必死で抑える。……彼女は気を遣ってくれたのだ。様子のおかしくなった俺を案じて、咄嗟に気をまわしてくれたのだろう。せっかくシティまで遊びにきたというのにこんな真似をさせてしまうなんて、俺は「先生」失格かもしれない。

「いや……謝るのは俺のほうだ。こっちに来る機会なんてなかなかないのにな」
「そんな! 買い物は充分できたし、先生と一緒に来れたから、あたしはそれで満足だ。……むしろ、あたしが無理言って連れてきちゃったせいで、先生にこんな思いをさせちゃったことのほうが気がかりっていうか――」

 ううん、と唇を尖らせながら、コレイはなんとか呼吸を落ち着かせ、ゆっくりと帰路を踏みしめはじめた。スメールシティを出てしばらくの道中は、雨林のぬるい風が俺たちの間を吹き抜ける。
 ……本当は、気になって仕方ないのだろうな。名前を名乗る隙すらなかった、あの男の正体が。

「――弟だよ」
「え?」
「コレイの想像どおりだ。さっき会ったやつな、俺の双子の弟で……ほら、こうするとそっくりだろ?」

 俺が前髪をかきあげて眉間にシワを寄せると、コレイは口元を押さえながらおおきく声をあげた。驚きのあまり手荷物を取り落としそうになっていたが、すぐに気づいてさっと体勢を立て直している。
 そうして姿勢をただす間にも、彼女はそのおおきな瞳を何度もしばたたかせながら、「ほんとだ……」と噛みしめるように呟いていた。……どれだけ離れて暮らしていても、俺たちの見てくれは瓜ふたつのまま、特に変わってないらしい。
 俺が話しはじめたせいか、多い隠されていたはずのコレイの好奇心が、いとけない所作の端々からじんわりとにじみ出てくるようになった。俺はちいさく深呼吸をして、極力私情を挟まないように、あいつとの記憶を口から逃していく。

「あいつ……サティっていうんだけど、すごく優秀な医者なんだ。教令院もストレートで卒業したし、ナフィス先生――今の生論派の賢者の先生にも気に入られててさ。みんな、あいつのことを慕ってる」
「……でも、ダスラ先生はあの人とあんまり仲が良くない……のか?」
「はは、そうだな。まあ、俺が一方的に嫌ってるだけなんだけど……」

 目を閉じて、あいつとの日々を振り返る。蘇るのは、ひどく苦くて忌まわしい感情ばかりだ。
 いつも、あいつと比べられた。両親だって、周りの人間だって、みんな俺たちを同じように扱ってきた。けれど「同じ」であるには俺たちの才能には差がありすぎて、いつしか誰しもが俺ではなくあいつばかりを見るようになった。
 明確に嘲られたり罵られたりした記憶はないが、視線は何よりも如実に彼らの思考を物語る。「サティさんかと思った」「サティが来てくれたらいいのに」「お兄さんの名前って何だっけ」そんな言葉ばかりが俺の脳内を木霊して、その声は未だに消える気配を見せない。
 周りの態度が変わってしまえば、俺の振る舞いも変わっていく。俺がスメールシティを飛び出したのは、教令院を何年もかけて卒業した、その次の日のことだった。

「みんな、あいつのほうが良いって思ってる。……当然といえば当然だよな。あいつは俺よりも優秀で、慕われてて、実績もあるんだから――」

 言いかけて、突然のことに思わず言葉を切ってしまった。不意に体が傾ぐのは本日二回目で、俺はある種のデジャヴをおぼえながら、眼下のコレイへと目を向けた。もっとも、此度は先立ってとは打って変わって、優しく上着の裾を引っ張られるくらいだったが――
 コレイは、ふるえながら俯いている。おそるおそる名前を呼ぶと、今度は弾かれるような勢いで顔を上げた。

「そ、んなこと、ない! あ、あたしはあの人より、先生のほうがいいぞ……!」
「こ、コレイ……?」
「だって、魔鱗病で苦しんでたときのあたしに寄り添ってくれたのはあの人じゃない、今目の前にいるダスラ先生だろ! あたしに勉強を教えてくれるのも、師匠と一緒に見守ってくれるのも、あの人なんかじゃないっ、先生だから――」

 そこまで言って、今度はコレイのほうが不自然に言葉を切る番だった。愛し子はまるくなってきた頬を一気に赤く染めながら、手をばたばたと動かして何某かの言い訳を重ねている。
 慌てているコレイはひどく愛らしかったが、申し訳ないことに、その内容はうまく頭に入ってこなかった。
 ……嬉しかった、のだと思う。コレイの伝えてくれた言葉は、俺の胸の奥にすっと降りてきて、まるで雨林を流れる河川のように染み渡っていった。噛みしめるように何度も咀嚼して、深呼吸を繰り返す。しかし悲しいかな、弟に会ったせいでいささか不安定になっていたらしい俺の情緒は再び視界を滲ませて、年長者らしからぬ無様なすがたを晒してしまいそうになった。

「……コレイは、いつも俺に光をくれるな」
「えっ――」
「すまん、五分だけ許してくれ」

 ひと言だけ断りを入れて、コレイのちいさな肩に額を預ける。縋るようなその姿勢は傍から見れば異様なふうであろうが、そんなことを言ってくる不躾な輩など、雨林の片隅にはいないようだった。
 ……今日は本当についてない日だ。よもや他でもないコレイの前で、こんなにも情けないところを見せる羽目になるなんて。
 遠くで木霊する暝彩鳥のけたたましい鳴き声をバックグラウンドに、俺はかつての思い出を過ぎらせていた。それはコレイがガンダルヴァー村に来て間もない頃の、彼女が初めて俺に笑顔を向けてくれた日――俺が、この子に心を奪われた日の記憶だ。

 
2024/06/05