小さな木枠と硝子板

 かつて暮らしていた狭い家は、私にとって唯一無二の、脆く堅牢な檻だった。
 その檻で閉じ込もるなか、私の関心を引いたのは壁を切り取った小さな窓だ。歪な四角形越しの景色は私にとって毒にも薬にもなり得るもので、いやに興味をそそられていたことを今でもハッキリと覚えている。
 ガスパールの緑豊かな景観は私の好奇心を強く刺激してやまなかったが、しかし、それを手に入れようとする意志は当時の私のなかにはなかった。細い木枠に嵌め込まれた硝子板はきっと私の両腕ならば簡単に壊せるものであろうに、そう考えたことすらなかったのだ。

 あの頃よりも大きく、色んなものを見るようになった私は、気づけば当時より何倍も自由に生活ができるようになっていた。誰の許可を取らずとも外を歩けるし、なんならフォドラを飛び出してパルミラにまでやってきている。よもや外の国で暮らすようになっているだなんて、あの頃の私が聞いたらまったく信用しないくらいの大事だろう。
 今の私には、ほんの少し照れくさいけれど仲の良い友人だっている。私のことを愛してくれる、唯一無二の伴侶だって。
 ――それでも、時おり過ぎるのだ。当時の私が見ていた光景。ボロっちい部屋の片隅で見上げていた窓の向こう、燦々と光が差し込むあのまばゆくも遠い景色に、もしかすると私は今でも囚われているのかもしれないと。

「――どうかしたのか?」

 ぼうっと外を眺めていると、背後から気遣わしげな声がかかる。振り返らずともわかるその声の主は、ひどく穏やかな足取りで私の隣に立った。

「……いいえ。ただ、昔のことを思い出していただけよ」
「昔? ……ガルグ=マクにいた頃のことか?」
「もう少し遡るかしら。ガスパールにいたときの……母に閉じ込められていた頃のことよ。あの頃は、狭い窓枠の向こうの景色がとても輝いて見えていたの」

 彼は――クロードは私の肩を抱き、寄り添うようにして私と同じほうを見やる。私たちの視線の先にあるのは、パルミラの王都を一望した景色だ。
 次期国王夫妻とあってか私たちの私室はなかなか豪勢な造りとなっていて、とくにこの露台越しに見る王都は、まるでパルミラという一国がこの地の果てまで広がっているかのような錯覚を起こす。
 ガスパールにいた頃には想像もできなかった景色が、この手を伸ばせばすぐにでも手に入るような、ひどく近い場所にあった。
 夕陽に照らされる王都は黄金色に輝いていて、この景色の隅々に至るまでがクロードを象徴するそれのように色づいて見える。私は夕暮れ、黄金色に染まる王都を見るのがひときわ好きだった。
 けれど、目の前にはこんなにもひらけた世界があるはずなのに、やはり、私の見る景色にはいつもあの“窓”がちらついている。……なかなかどうして、人生というものはそううまくはいかないようだ。

「馬鹿みたいよね。すべてを乗り越えたような顔をして、未だに母に囚われてるなんて」

 取り繕うような自嘲とともに言うと、クロードはとんでもない、と先ほどよりも強く私の体を抱き寄せる。よろめきながら見上げた先にあった彼の顔は、ひどく穏やかに目を細めているふうだった。

「子供の頃の……とくに母親との思い出ってのは、良くも悪くも心の奥にこびりつくもんさ。俺だって似たような覚えはあるぜ」
「けれど、私は母を手にかけて――」
「関係ないね。人間の感情ってのは、そう簡単には割り切れるもんじゃない。……一人では限界があるんだよ」

 ――だから、今ここに俺がいるんだ。
 言いながら、クロードは私の顎をすくって口づける。やわらかな唇からは彼の優しさや愛情が隙間なく流れ込んでくるようで、私が抱える不安を押し流すように全身に満ちた。
 ……いつか、あの窓もすっかり取り払われるだろうか。小さな木枠の向こうに見た景色へ、本当の意味で飛び出せる日がやってくるのだろうか――そうして少しだけ前向きに思えるのは、他でもないクロードが、寄り添い、傍にいてくれるからだ。
 途端、胸の奥からじわりと愛おしさが湧き出てくる。腹に溜まる鉛のすべてが彼への愛でもって流れ去ったという曖昧な自覚を、わたしはこのときに得たのだった。

 
2022/11/03