咲ってほしいと思うから

 花言葉というものを知っているか。それは、本の世界に度々出てくる少し詩的なお遊びだ。
 今までの人生、ウィノナはそういったものにあまり縁がなかった。花に気持ちを込めて普段言えない想いを伝える――そんな麗しいやり取りをかわすような友人も、親しい家族も居はしなかったから。恋人なんて以ての外、数年前になってやっと友人と呼べる人間がちらほら出来てきたくらいなのだから、ウィノナが築いてきた人間関係というものは、色々と察せられるものである。そもそもの前提として、ファーガスに咲く花はある程度限られていた。
 兎にも角にも、ウィノナにとって花言葉とは本の中に織り込まれた、恋愛要素を彩るためのちょっとした要素でしかなかった。対岸の出来事と呼ぶに相応しいそれは、そういえばアネットが熱心に勉強していた気がするなと記憶の隅にあるくらいか。否、ひとつ思い出すと花に詳しいドゥドゥーやアッシュ、女性らしい趣味を持つメルセデスと、ほかにも何人か知っていそうな人間がいるな、と芋づる式に思い出す。
 つまるところ、ウィノナは花言葉はおろか植物の類に明るくないのだ。アネモネのようにほんの数本好きな花があるといったくらいだから、突然贈られた薔薇の花言葉にも、その色と本数に込められた意味というのにも、いまいちピンとこなかった。本や歌劇、ガルグ=マクの温室で見たような真っ赤なそれとは打って変わった漆黒の薔薇。丁寧に愛をこめて育てられてきたのだろう、花びらのひとつひとつが瑞々しくも艷やかだ。少しでも力を込めれば手折ってしまいそうな花束を、ウィノナはそっと、優しく両手で受け取る。どうして、と訊ねてみると、緊張した面持ちのディミトリが、頬をほんのりと染めて唸った。
「……いつだったか、俺がアンヴァルへ巡察へ行ったのを覚えているか」
「ええ。ちょうど私がガスパール領まで行っていたときよね」
「そうだ。そのとき……その、ミッテルフランク歌劇団の公演の貼り紙を見た。恋愛歌劇だったんだが、言わずもがな人気を集めているらしい。その流れもあってか、あの辺りでは愛しい人へ薔薇を贈るのが大流行なのだと」
 いつになく早口でまくし立てるような話し方をするディミトリから、彼の緊張の程が伝わってくる。ウィノナの視線は、どこかしどろもどろになりつつあるディミトリと薔薇を往復していた。
「だから、俺もお前に贈りたかったんだ。俺にとっての愛しい人といえば、一番に浮かぶのはやはりお前だから」
 この上ない愛の言葉と共に、決意を秘めて見つめてくる隻眼。意志の強い瞳は知らぬ間にひとつとなってしまったが、漆黒の眼帯の下にあったはずのもう一方がいま見える空色と変わらぬ彩であることを、ウィノナはよく知っている。塞がっているはずの傷が、悪夢と共に痛むことも。
 彼の愛は、例えるなら雨のようであった。ウィノナにとっての恵みである。悲しいときには寄り添い隠し、乾いたときには潤してくれる。絶え間なく降り注ぐそれに何度救われただろうか? 不器用な彼がありのままに与えてくれる愛は、いつだってウィノナの心をひどく震わせる。
 そして、今も。形となった彼の愛を、優しく、きゅうと抱きしめた。
「ありがとう、ディミトリ。謹んで受け取らせていただくわ。……とっても綺麗ね」
「! ああ……ああ、そうか! よかった――」
「でも、よくこんな綺麗なまま輸送してこれたわね? ガルグ=マクから運んでくるにしたって、その間に少しくらい傷んでしまいそうだけれど」
「その点は問題ない。俺が育てたのだからな」
 ふん、と誇らしげに胸を張るディミトリ。その真正面に立ち尽くしたまま、ウィノナは形の良い唇をあんぐりと開いて呆けていた。あのディミトリが、手ずから、花を――?
 一体どこで、どうやって。フェルディアは非常に寒冷で、そのうえお世辞にも豊かとは言いにくい土地である。これはもともとの王国領全体に言えることでもあるが、とにかくこの土地でこれほど立派な薔薇を育てられるとは考えにくい。いつの間に。いつの間に。そう何度も念じていると、ウィノナの考えを見透かしたらしいディミトリが得意げに話し始めた。
「ドゥドゥーに協力してもらったんだ。俺が即位して2年が経った頃だったかな、あいつのために小さな温室を建てただろう」
「あ……ええ、確かに」
「そこを少しだけ間借りして、隅で数本育てさせてもらったんだ。世話の仕方も、切り方も、これからの手入れのやり方だってしっかり教わった。そうだな、ゆくゆくはあの温室をもう少し広げてみてもいいかもしれない。花があると気分が豊かになるからな」
 上機嫌となったディミトリは、先程の強張った様子はどこへやらペラペラと饒舌に話を続ける。それは薔薇が咲いたときの得も言われぬ感動であったり、ドゥドゥーの手際の良さを讃えるものであったり、ダスカーの花の美しさであったり。温室の拡張計画から、いずれはファーガス各地でも花を育てられるようになってほしいという小さな野望にまで広がっていき――やがてウィノナの返事がなくなった頃、まるで我にかえったように彼女のほうを見た。
 おのれの多弁さを恥じたのか、今度は子犬のような目をして顔を覗き込むディミトリ。ふるふると震えるウィノナの唇は、かすかだが言葉を発している。
「……これを。私のために、育ててくれたの?」
 絞り出したような言葉の後、小さく鼻をすする音がする。ウィノナの反応に安堵したのか、ディミトリは再び笑って彼女の体を優しく抱きしめてみせた。途端にまあ、と声があがったのは、この場がフェルディア城の通路に他ならないからである。世間がお昼の茶会を開かんとするこの刻限は、侍女や執事の人通りも多い。
「なあ、ウィノナ。俺は嬉しかったんだ。俺のような殺戮者でも、こうして立派な薔薇を育てられたことが」
 ほんのりと力がこもるディミトリの腕。だがそれは壊すためのものではなく、慈しみ、愛を伝えるためのものだ。
 苦しくはない。痛くはない。ただひたすら、腕のなかに幸せが広がっている。
「だから、俺が初めて育てた花を、無事にお前が受け取ってくれたこと……喜んでくれたことが、とても嬉しい」
 ――ありがとう。愛している。
 もはや言葉にせずともわかる、彼の精いっぱいの愛を全身に浴びた昼下がりだった。

 

「――ということがあったの。だから、今日は2人に薔薇の加工方法を聞きに来たのよ。枯らしちゃう前にどうにか保存できないかって」
 あれから2日が経った今日、ウィノナは王都にある喫茶店へと赴いていた。話の通り、どうにか薔薇を長持ちさせる方法はないかと旧友を訊ねて来たのだ。ドゥドゥーに聞いてもよかったのだが、それはそれでディミトリに筒抜けになりそうで少し気恥ずかしかった。
 ところが、メルセデスとアネットはにんまりとした笑みのまま、ただウィノナを見つめるだけ。冷やかされるだろうことはなんとなく予想がついていたが、それにしたって酷いではないか――しびれを切らしたウィノナが口を開くのと同時に、興奮混じりに切り出したのはアネットだ。
「いや~、すごいね、陛下! すっごく情熱的じゃない!? あたしだったらひっくり返っちゃうかも」
「本当よね~。黒い薔薇を、11本。ふふ、いっぱいお勉強したのかしら~」
「2人がお熱いのは知ってたけど、予想以上でちょっとのぼせちゃいそう」
 言いながら、顔をパタパタと仰ぐアネット。メルセデスも彼女に同意しながら、紅茶を一口ふくんで微笑む。ウィノナは話が読めずに首を傾げた。何のこと、とおそるおそる口に出してみると、それに応えるようにメルセデスが目を細める。
「あらあら~、ウィノナは知らないのね。薔薇って、薔薇全体の花言葉に加えて、色にも本数にも意味があるのよ」
 その後、ウィノナが言葉をなくして机に突っ伏したのは言うまでもない。

 
20200727